久光、初対面の容堂に持論をぶつ

これまで島津斉彬と山内容堂の関係を述べてきました。

 

では弟の久光と容堂はどうだったのでしょうか。

 

久光は斉興と側室お遊羅の子として、文化14年(1817)に鹿児島で生まれました。

 

容堂が文政10年(1827)生まれですから、久光が10歳年上です。

 

山内家に嫁いだ祝(とき)姫は久光の姉なので、祝姫の養子である容堂は久光の義理の甥にあたります。

 

久光は9歳の時に分家の重富島津家を継ぎましたが、斉彬の没後、久光の長男忠義が藩主となったことから、忠義を補佐するため本家に戻りました。

 

江戸育ちの斉彬とちがい、久光はずっと薩摩にいたので、容堂との接点はありません。

 

久光と容堂が初めて会ったのは文久2年に久光が勅使大原重徳とともに江戸参府したときのようで、旧土佐藩士の丁野遠影が明治25年の史談会で次のように話しています。

 

久光公、文久頃大原勅使とお下りになって、容堂が御出合い申した時、久光公は攘夷攘夷と云うけれども、日本では攘夷は出来るものでない、開港にならねばならぬと云うことはお話があった。

其れも容堂当りでも、稍々(しょうしょう)攘夷は行かぬと知って居る。

山内容堂はアレは行かぬと知りつつも、天下の人が真受けに受けて居るものがある故に、成る丈け言わなかった。

【東久世通禧「五卿筑前太宰府及び周防三田尻滞在中の事実附二十八節」 史談会速記録第6輯】 

 

久光は初対面の容堂に、「みな攘夷攘夷と言っているが、(武力の劣る日本が)攘夷などできるものではない」と、当時の風潮に反することを堂々と口にしています。

 

丁野によれば、容堂も内心では攘夷などできないと分っているが、世間が信じ込んでいるので、なるだけ言わないようにしていたとのことですが、久光はストレートに持論を述べたようです。

 

二条城で取っ組み合いのケンカ

容堂という人は傍若無人なふるまいで有名ですが、久光との間でおきたおもしろいエピソードがありました。

 

熊本藩主細川韶邦(よしくに)の弟で、藩主名代として上京していた長岡護美(もりよし)が島津家の事蹟調査に訪れた市来四郎に語ったものです。

 

久光公御滞京中、或るとき二条城に於て、公、容堂、予等酒宴を賜わり互いに御気満ちたるころ、公、容堂と開港説に関して論議あり。

互いに言い募(つの)り、段々と激論となり、終には何方(いずかた)よりか判然せざるも扇を以て撃てり。

夫れより組み打ち始り、其儘(そのまま)座席の襖(ふすま)を推倒(おしたお)したり。

然るに次間(つぎのま)には幕の閣老輩詰め居る所なりしに由り、其頭上に推し倒したり。

然れども、閣老等辟易(へきえき)して一言もなかりしは、傍(かたわら)より腹を抱えて笑を忍びたり。

今に至ても之れを思えば抱腹に堪えざることなり。

之れより爾後(じご)公と容堂君との御交際は一層親密になられたるやと覚えたり。

【「島津家事蹟訪問録 故子爵長岡護美君談話」史談会速記録第169輯】
 

 二条城(「維新史跡写真帖」京都大学付属図書館蔵)

 

「御気満ちたるころ」というのは、アルコールがまわっていい気分になったころでしょうか。

 

久光と容堂が口論から取っ組み合いのケンカになって、となりの部屋との仕切りの襖をおしたおし、その襖が隣室にいた老中たちの頭上に倒れかかったというわけです。

 

「閣老等辟易して一言もなかりし」は、老中たちも両人の傍若無人なふるまいにあきれかえってものが言えなかったということですが、城中という場所柄大声で笑うわけにもいかず、けんめいに笑いをこらえている長岡の姿が目に浮かびます。

 

容堂は若いころから乱暴者で知られています。

 

一方、久光の方は小説やドラマでは強面(こわもて)のイメージで描かれますが、実際はその反対で、兄の斉彬は「柔和」と評していました。(「三七九 山口定救へ書翰 五月二十九日」『鹿児島県史料斉彬公史料第一巻』

 

また、嘉永2年(1849)から16年間久光に仕えた侍女の木通ふぢも、久光没後50年の懐古談で「久光公は非常におやさしい方でいっぺんもお叱りなされたことはありませんでした」と語っています。(「五十年前を回顧 島津久光公を語る―当時の侍女二人」『鹿児島新聞 昭和12年12月4日夕刊』)

 

このケンカは、久光の意外な一面がうかがえるエピソードです。 

 

長岡が、「これがあって以来、久光公と容堂君のご交際はいっそう親密になられたようだ」と語っていますから、ケンカをきっかけにして二人が親しくなったということですね。

 

via 幕末島津研究室
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