つまらない奴が出す金は汚い 

最近は「政治とカネ」の話が世間をにぎわしていますが、作家の司馬遼太郎と文芸評論家江藤淳の対談で、政治家の金の使い方について、こんな会話がありました。

 

 司馬 「金の力をさらりと借りるというか、その豪傑ぶりというのは勝からはじまる、といっていいでしょう。」

 江藤 「そうですね。」

 司馬 「ただ、勝はともかく、江戸時代の政治家はだいたい小粒ですね。
えらいのは島津斉彬かな。

この人は、ある大名から家督相続について、幕府が容喙(ようかい:口をはさむ)するので困りますと相談されて、賄賂を使いなさいと、実に簡単にいう。

斉彬自身は賄賂はいやなのです。
原則としてそういうことには反対です。

しかしそれはそうだが、いまの幕府ではこうするのがいちばん早くて、たしかだということを知っている。
それなら賄賂を使え――。

これは金の使い方を知っているのですね。」

 江藤 「ほんとにそうです。」

 司馬 「一格も二格も上でないと、金は使えないですね。

もらう側と同格のやつが渡しては、これはいけない。
金を出す人間のえらさというのは大事で、つまらないやつが出す金ほど汚いものはない。

いったい、いまの日本の政治家でさらりと金を出せるのがいますかね。」 

(対談日は昭和47年(1972)9月11日)
【「織田信長・勝海舟・田中角栄」『司馬遼太郎対話選集3 歴史を動かす力』文春文庫】

 

斉彬は非常にストイックで不正をきらいました。

 

たとえば安政元年(1854)1月にだした諭達書では、進物贈答の悪習をなくすためには上に立つものが進物を受け取らないようにすればそのような習慣は自然になくなるとさとしています。

 

しかし、司馬が語っているように、場合によってはワイロを勧めるというリアリストでもありました。

 

司馬が例にあげた家督相続の話は未見ですが、明治21年の史談会で細川潤次郎がこのようなエピソードを紹介しています。

 

斉彬、山内容堂にワイロ活用を勧める

 
ある時予(細川)また容堂に問えり。

「薩摩守(斉彬)殿と政事上何事か御談合なりしか、定めて卓越の御意見ありしならん」と申せしに、容堂曰く

「薩摩守、誠につまらぬ事を申したり」

予曰く、
「その事柄は政事上一大事の問題なりしや」と問い返したりしに、答えらるるに、

「予(容堂)、『国政を改革するには人才を得るにあり、しかるに人才を用うるに旧来門閥の内には人才なし、反(かえっ)て其下にあり。
しかるに之れを用いんと欲せば、ともかく老臣等において家格門葉を主張してこれを拒み、任用すること難し。
如何せばこれを用ゆるに手近き手段あるや』と問いしに、

薩摩守曰く、『 予も人を用ゆるは大に困難を極めり、これ十分機密を要することにて、容易ならず。
しかしここに一法あり、その法とは君の手許より任用すべき見込の人へ金を遣わし、彼をして内密家老等を籠絡せしめば、稍(ようや)く同人の所為を悪まず、かえって褒むるに至らん。
然れば自然同人を推挙するに及ぶべし。之れ事に障(さわり)なし、又過なく円滑に事を弁ずるに至るべし』と、

予(容堂)は甚だ薩摩守の説に不同意なりし。
何者は金を与え、これを家老等へ分与せしめ、自然推挙を得せしむべしとは、すなわちワイロを使わしめて立身出世を図らしむべしと言うに異ならず。
此の如き不正の所業を行い人を用うるを要せず。
ゆえに薩摩守の答、不審に思えり」と申されたり。

当時は予(細川)等も容堂の説を以て潔しと感じいたりしが、種々世難を経て人情行路の煩雑なるを思えば、公(斉彬)の卓見、誠に適中せること多し。

当時においては容堂をはじめ、予等も世路に熟せず浅薄の見なりしは、甚だ慙愧に堪えざるなり。

今日にもあれ容堂存在なれば、予は昔時順聖公(斉彬)の卓言適中せしや如何を問うことあれば、容堂もまた必ず公の卓見今更感服の外なしと申すならん。

もっとも容堂の人となりは稍々粗我慢の性質あり、何等の人にも心服せられたりと言うことなし。
ただ順聖公には真実及ばざるを察了せられしもののごとし。
実に明識の君と申すべしと語られたり。

【「島津家事蹟訪問録 男爵細川潤次郎君ノ談話 島津斉彬公逸事談」『史談会速記録 第182輯』】

 

『照國公感旧録』さし絵

 

容堂と斉彬の会話を現代文になおすと、

 

容堂が 「藩の政治を改革するためには、優秀な人材を得ることが必要です。

しかし、旧来の門閥には優秀なものがおらず、かえって下級武士の中に人材がいます。

そのような人間を用いたくても、家老たち重臣が家の格が低いとか一門でないからダメだなどと主張して拒否し、任用することができません。

簡単にできる手段はありませんか?」 とたずねたら、斉彬がこう答えたということです。 

 

「私も優秀な人を用いるのは非常に困難なことが多い。

人事というのは機密を要するので、簡単にはいかないものだ。

しかし、ひとつの方法がある。その方法というのは、君の手元にある金を任用したい人に与えて、彼がそれを使ってこっそり家老たちを篭絡すれば、家老たちは彼のことを悪くいわず、かえってほめはじめるだろう。

そうなれば自然と彼を推挙するようになる。

それによって、トラブルを起こさず円滑にことをすすめられる」 

 

要するに自分のポケットマネーを渡して、家老たちに賄賂を配らせろという話です。

 

まだ若かった容堂はそのような不正はできないと反発して、実行しませんでした。

 

容堂は細川に「薩摩守誠につまらぬ事を申したり」といって、この話をしました。

 

それを聞いた細川も、その時は容堂の潔癖さに賛同しています。

 

しかし、明治になって元老院議官などを務め、さまざまな苦労を経験したあとでは斉彬の卓見に感服し、自分たちの考えは浅薄だった、もし容堂が存命であればおなじ意見だろうとかたっています。

 

 細川が最後に、「もっとも、容堂は少しやせ我慢する性格だから誰に対しても心服したと言ったことがない(から斉彬公をほめないかも知れない)のだが、斉彬公には真実及ばないと察していたようだ」とつけ加えているのも面白いですね。

 

via 幕末島津研究室
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