前回は少し不気味な話だったので、今回は明るい話をします。

島津斉彬の人物像です。

西郷隆盛が斉彬がどんな人だったかと聞かれたときに、姿勢を正して「あたかもお天道様(太陽)みたような御方だよ」と答えた話は有名ですが、斉彬に接した人たちはみな同様の印象を語っています。

 

「口ではうまく言い表せないが、とにかくいつも明るい」人だったようです。

和気春の如し

幕末の四賢侯の一人で斉彬の盟友だった四国宇和島藩主の伊達宗城(だて むねなり)は、明治21年に島津家事蹟調査員の寺師宗徳(てらし むねのり)から、「斉彬公のご性質はどのようなものでしたか?」と尋ねられて、このように答えています。(一部の漢字をひらがなに変更)

公は古今比類なき御方にして、筆にも口にも公の御行状を申し述べ難し。
今日に至るまで七十余年、衆多の人にも接したるも、未だかつて公の如き度量広大にして和気円満の方を見しことなし。
一言を以て申せば、常に和気春の如しとも称すべきか、更に形容のことばなし。
 永き間内外煩雑の事柄も多く、憂患ならびいたる時会も少なからざりしも、一度も愁色鬱屈あらせられたることを窺いしことなし。
一時御内情混雑(=お遊羅騒動)の際は、予の如き余人でさえはなはだ憂懼(ゆうく:心配し恐れる)に堪えざる程のことありて、公の御内心いか計り困苦し給わんと察し上ることもありしも、公は更に表面色に現させられしことなかりき。
これ度量広大にして万事を容納し、且つ瑣事(さじ)に屈撓(くつとう:屈服)せざるの胆略あらせらるるに由るものならんか。 
【島津家事蹟訪問録「故伊達従一位(宗城)ノ談話」『史談会速記録 第176輯』】

宗城の斉彬評を超訳してみると、

「斉彬公は古今に比類ない方なので、言葉で説明できない。

私は70年あまりの人生でたくさんの人に会ったが、斉彬公ほど度量が大きくてなごやかな方は見たことがない。

いつも春のようにのどかだったとしか言いようのない方だった。

長い間藩の内外にもめごとが多くて、悩み事が重なる時も少なくなかったはずなのに、心を痛めているようなそぶりを見たことがない。

お遊羅騒動で藩内が大騒ぎになったときは、自分のような部外者でもたいそう心配して、斉彬公も内心はどれほど苦しいことだろうかとお察ししたが、公は不安を顔に出すことはなかった。

これは度量が広大で、腹が据わっているからだったと思う」

になるかと思います。

島津斉彬肖像(公爵島津家記念写真帖)

怒りたる顔色を見る事なし

伊達宗城と同じく斉彬の盟友だった越前福井藩主の松平春嶽(まつだいら しゅんがく)も、その著書『逸事史補』においてこのように書いています。

斉彬公は、性質温恭忠順、賢明にして大度有所、水府老公・容堂如きとは同日に論じ難し。
天下の英明なるは、実は近世最第一なるべし。
尊王は勿論、幕府にもよく恭順をつくし、一家の事に困却しておれり。
併し乍ら、数年朋友として交れり。
然れども怒りたる顔色を見る事なし。
実に英雄と称すべし。
【「島津家の内訌」松平慶永『逸事史補』人物往来社 惟新史料叢書4】

宗城や春嶽がかたっているように、斉彬は人前で悩んでいる顔や怒った顔を見せたことがなく常にニコニコしていたようです。

 

トップのあるべき姿として、明るさは欠かせません。

アメリカの鉄鋼王(USスチール創業者)で、アメリカでもっとも有名なコンサート会場にその名を残しているアンドリュー・カーネギーは、「財産よりも、もっと尊いのは ”明るい性格”だ」と語っています。 

 

現代の企業でもそうですが、トップが明るいのとそうでないのとでは部下の士気が大違いです。

 

斉彬の藩主在任はわずか7年半しかありませんでしたが、その間に武骨だった薩摩の藩風を一変させ、薩摩藩を日本近代化のトップランナーに変貌させました。

 

2015年に世界文化遺産に登録された集成館事業では、短期間で日本初の西洋式軍艦(=昇平丸)や蒸気船(=雲行丸)の建造、反射炉の築造と大砲の鋳造といった軍事産業を成功させただけでなく、薩摩切子や近代薩摩焼などの新たな民生品を生みだすなど、軍需と民需の両方で数多くの成果をあげています。

 

さらに藩の教育システムを大改革し、多くの偉人を輩出する基礎をつくりました。

まさに江戸時代最高の名君といえます。

 

このようなことができた理由はいくつかありますが、そのひとつはいつも明るいトップの下で部下たちが思う存分力をふるえたからだと考えています。

 

 

 

via 幕末島津研究室
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