前々回でとりあげた有馬藤太の聞き書きの中に、ちょっと変わった話があったのでご紹介します。

 

鳥羽伏見の戦いで石清水八幡近辺が戦場になったときの話なので、戦闘開始後4日目となる慶応4年(1868)1月6日の出来事です。

有馬はこう語っています。

残兵探し

残兵が八幡にいるという報告があったので、(中略)一般の状況を視察してから神社の神主の家に行ってみると、一人ふとんをかぶって寝ている者がある。
何者かときいてみると、
「自分はここの神主で、池田峰蔵という者であります」
といいながら名刺を差し出した。
その様子をみると、葵の紋のついた立派な着物を着ている。
くわしく調べにかかると、私のすきをみて、敷ぶとんの下からピストルを出して撃とうとした。
私は持っていた「官」と書いてある旗でそれをたたき落とした。
するとまた刀を抜いて斬りかかって来る。
またそれを打ち落とす。
重傷を負っていたのでそれきりあえて抵抗もしなかった。

その隣室に、もう一人の歩兵が寝ていたのでこれを捕えて調べてみると、
「あの人は神主ではありません。
第二大隊の司令官で、鏑木靱負(かぶらぎ ゆきえ)という人です」
と白状した。
この鏑木という男は、色の白い二十五、六歳ぐらいの堂々たる美丈夫であった。
神社内で斬るのは不敬だから、それを戸板に乗せ、人夫にかつがせて下の方へ運ばせた。
「官軍に向って発砲したということは、誠にすまないことだから、従容として死に就きなさい。
錦旗に対してお手向いをしたのだから、まず京都に向い、皇室に対し奉って遙拝せられよ」
というと、彼は疲れたる体を起し、赤心を表に顕わして、うやうやしく遙拝した。
よせばよかったのに、
「私は島津の第二大隊の監軍だから、島津公にも謝罪しなさい」
というと鏑木は奮然として
「ナニッ」
といいざま、私に飛びかかる。
私は彼の持っていた備前の助定で一刀に首をはねた。

その首は三、四間(5~7m)向うへ飛び、いかにも残念そうに、ガブガブッと土を噛んだ。
その物凄さに私は覚えず身震いした。
足軽の石塚栄治が
「土を噛んだ奴はタタルから」
といって、まじないに、男は左の足、女なら右の足を十文字に斬ればタタラヌといい、左足を十文字に切った。
【「八幡方面における行動」上野一郎編『有馬藤太聞き書き 私の明治維新』産業能率短期大学出版部】

 

毎夜亡霊にうなされる

石塚のアドバイスで鏑木の左足に十文字の切り傷をつけた藤太でしたが、効果はなかったようです。

養子となって義父の名である藤太をついだ人物が、大正8年に聞いた話として、このようなことを書き残しています。

鳥羽伏見の戦いの時、京都八幡神社のそばで斬った幕将鏑木の首が三、四間飛んで、無念そうに土をガブガブと噛んだ時には、如何にも気味悪かった。

そののち夜な夜なうなされて困っていると、その事が某妓の口から、剣術の指南小野殿の耳に入った。
「藤太どん。お前(は)んな毎夜夢をみて叫ぶそうじゃね」
右の次第をくわしく話すと、
「そういう事は必ずあるものじゃ。わしが出ないようにしてあげよう」
といわれた。
三、四日するとぴたりと止まった。

後で聞くと、先生が相国寺の方丈にたのんで、水施餓鬼をしてくれたのだそうだ。
【「亡霊にたたられる」上掲書】

薩摩藩士は示現流か薬丸自顕流の使い手が多いのですが、有馬は飛太刀流小野強右衛門(ごうえもん)の門に入り、19歳で師範代になっています。

 

京都の薩摩藩邸に隣接する相国寺の僧に水施餓鬼をたのんだ小野殿というのは、おそらく小野強右衛門のことでしょう。

相国寺(ブログ主撮影)

 

 

 

 

via 幕末島津研究室
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