幕府とともに消えた攘夷論

前回は、有馬藤太が西郷隆盛から「攘夷というのは幕府を倒す口実」だと教えられた事を紹介しました。

 

じっさい、大政奉還で幕府がなくなったのち、「攘夷」という言葉は志士たちの口からきえてしまったようです。

 

明治25年の史談会では、このようなやりとりがなされています。

(市来君:四郎 旧薩摩藩)
広瀬さん、お尋ね申します、小河さん(小河一敏:旧岡藩士、真木和泉らと寺田屋事件に参画)はこの間のお話の通りの始末で、御一新の事になりました時の御感想は。
攘夷説は丸きり止みて仕舞うて、其の時の思想はどういうものでござりましたか。
御満足の御都合でござりましたか、御内心に残念がられて居られましたものでござりますか。

(広瀬君:重武 旧岡藩 寺田屋事件に参画)
私共小河と上りましたのは、正月の二十五、六日頃京都に着きました様に覚えます。
其の時分の一体の事を、――今日から其の時の思想を申し上げますと、大政返上ということになったものであるから、攘夷ということは天下の有志はどうということはなかった様子。
小河も外国のことは念慮になかった様子。(中略)
自然と攘夷論は消えて仕舞うた、何とのう消えて仕舞うた。

(市来君)
一般そうでござりましたから。

(広瀬君)
今思えば薩州でも、長州でもこれでは攘夷は出来ぬと見て、長州も薩州も皆なそう思ったもので、御一新になったものであるから皆嬉しくて(攘夷のことを)思わなかった様子。

(丁野君:遠影 旧土佐藩)
御一新になったものであるから、何よりも嬉しくて、攘夷どころでありませなんだ。

(八木君:銀次郎 旧犬山藩)
口には攘夷を唱うれども、心には嫌ったものがありますから。
【東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)「五卿筑前大宰府及び周防三田尻滞在中の事実附二十八節」『史談会速記録第6輯』

旧土佐藩の丁野がもらした「嬉しくて攘夷どころではなかった」というのが、討幕派の武士たちの本音だと思います。

 

ただし、攘夷を真に受けて心底外国をきらっていた人たちが多かったことも事実です。

 

尾張藩と親密な旧犬山藩の八木は、「尾州藩中には十五になる子供を刺殺して死んだ者もあって、洋風になった世界に生かして置いては残念なと言った、新野久太夫と申しました」という事例を紹介しています。

 

また、このときの史談会に参加していた旧館林藩の岡谷繁実(おかのや しげざね)は、「私共は本当の攘夷をやるつもりでありました、朝廷の方が攘夷をお止めになった故、芝居ですれば馬の足で、私共は御一新の馬の足のようなものであります」と自嘲的に語っています。

 

一般の公家は攘夷論を信じていた

では、公家たちはどうだったのか。

市来四郎がこの日の話者である東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)に聞いています。

(寺師君:宗徳 旧薩摩藩)
予ねて承ります通り、水戸烈公が言われた通り、攘夷で鼓舞して開国するということでありますが、其の順序通りに行ったものと言わねばならぬ。
始めはあなた方も熱心攘夷という論でござりましたろう。

(広瀬君)
其れは先帝(孝明天皇)の御主意が確乎として動かぬものであるから、どこまでも其の叡慮
(えいりょ:天皇の意思)を唯々見たもので、其の時の国是は攘夷ということであると信じました。

(市来君)
御前方(ごぜんがた)のお思想も、叡慮々々と名義をお借りて、後にはケ様ということでありましたものですか。

(東久世伯:通禧 公家 八月十八日の政変で京都を追われた一人)
攘夷を借りて、後にはということは條公(三條実美)はあるかも知らぬが、外には発露せぬでござりました。
宰府(大宰府)に行ってから、攘夷は段々薄くなって仕舞うた。

(市来君)
一般叡慮遵奉ということが先になっておりますから、これは其の通りでござりました。
其の時分の叡慮というものは貴いものでござりまして、利害得失は論ぜず、叡慮ほどありがたいものはないと覚悟したのであります。

(広瀬君)
命も何も差上ぐる覚悟。

(寺師君)
攘夷という一つの奨励物を以て、人心を鼓舞して、そうして維新の根拠を形づくったと見て宣いですネー。

(八木君)
攘夷を鼓舞せねば、士気が振わず御一新もできませぬ。
【東久世通禧 上掲書】

攘夷が討幕の方便というのは、三條実美クラスは腹の中で思っていたかも知れないが、一般の公家はそうは思わず、ひたすら叡慮に従うだけだったようです。

東久世通禧(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

 

via 幕末島津研究室
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