幕末の対立図式が変化していた

幕末における国内の対立は、「尊王」vs.「佐幕」または「攘夷」vs.「開国」で語られることが多いのですが、最近の研究によるとこの図式が変化しているようです。

 

「尊王」と「佐幕」について、広島大学大学院の奈良勝司教授は、最近出版された書物でこのように書いています。

 

長らく幕末維新史研究では、幕末の動乱すなわち「尊王」と「佐幕」の対立と理解されてきた。

高まる天皇権威とそれに抗(あらが)う「幕府」勢力の角逐(かくちく:競り合い)こそが複雑な政争の底流を貫く基軸であったという考え方である。
しかし、近年の研究ではこのような構図が前面に押し出されることはほとんどない。
政治過程の詳細や関係者の思想が掘り下げられるにしたがって、この構図では変革の実態が説明できないことがわかってきたからである。

(中略)
じつのところ、当時の大名の大半は「尊王」かつ「佐幕」という立場で、両者はけっして二律背反ではなかった。

また幕臣は条約遵守を天皇権威に優先させた勢力もいたが、主流派は天皇との協調(癒着)を選んだ。

このように、「尊王」は必ずしも天皇個人を信奉して絶対視するイデオロギーというわけでなく、また「佐幕」の立場と二者択一でもなかった。
【奈良勝司「”尊王”と”佐幕”は対立軸ではなかった?」 町田明広編『幕末維新史への招待』 山川出版社 2023年4月初版発行】

ようするに、幕末の日本には天皇を否定するような者はいなかったので、全員が「尊王」だったということです。

 

また、「攘夷」と「開国」については、神田外語大学の町田明広教授がこう書いています。

当時は攘夷の解釈によって、国内は二分されたが、その主たる対立軸は、通商条約の是非にあり、それぞれの主張は、「大攘夷」と「小攘夷」であった。

(中略)
「大攘夷」とは、現状の武備では、西欧列強と戦えば必ず負けるとの認識に立ち、無謀な攘夷を否定した。
現行の通商条約を容認し、その利益によって十分な武備を備えた暁に、攘夷を実行すると主張したのだ。
公武合体派と呼ばれた人たちは、ここに属した。
井伊をはじめ、龍馬が批判した幕閣もこの考えであり、実は攘夷であった。

一方で「小攘夷」とは、勅許も得ない現行の通商条約を即時に、しかも一方的に廃棄して、それによる対外戦争も辞さないとする破約攘夷を主張した。
しかも実力行使をいとわず、しきりに外国人殺傷や外国船砲撃といった過激な行為を繰り返した。
尊王攘夷派と呼ばれた人たちは、ここに属する。

すなわち、当時の政争は「大攘夷」vs.「小攘夷」の構図なのだ。

なお今まで、幕末の攘夷政策は、このように大攘夷と小攘夷に分類されてきた。
この攘夷の方策や実行時期の相違からなる対外概念を、本書ではわかりやすく大攘夷を「未来攘夷」、小攘夷を「即時攘夷」として再定義したい。
【町田明広『攘夷の幕末史』 講談社学術文庫 2022年4月初版発行】
 

奈良教授が書いているように、「尊王」派と「佐幕」派の両方が全員が天皇を尊重していたので、孝明天皇が希望する「攘夷」を実行することに異存はありません

 

問題はその時期で、外国に対抗する武備を整える時間が必要だとする「未来攘夷」派(公武合体派:幕府や斉彬・久光)と、勝敗を無視してただちに行なうべきだとする「即時攘夷」派(尊王攘夷派:水戸・長州や浪士)に分かれるということです。

 

水戸斉昭肖像(京都大学付属図書館所蔵)

 

内戦外和

「尊皇攘夷」派の大ボスは水戸藩主の斉昭(烈公)でした。

ドラマなどでも「尊攘」と書かれた大きな掛け軸を背にして、「攘夷じゃ!」と叫んでいる姿がよく演じられます。

 

しかし、彼は本心では攘夷などできないと考えていたようです。

 

旧高松藩出身の漢学者牧野健次郎が明治27年の史談会で、水戸の藤田東湖(斉昭のブレーン)に師事していた高松藩の松崎渋右衛門が東湖から言われたという話を紹介しています。

藤田東湖が始終話しに、
「国は戦うべき勢いがあって、然る後和議を保つ事が出来ることじゃ。
初めから和睦を以て交わっては到底国の国威は立たぬ、独立は保つ事は出来ぬ。
我の攘夷を唱うるは、其実は行い難きことである。
けれども攘夷を唱えて士気を振起せねば、国は保つ事は出来ぬに依って唱えるのである」
と東湖より話がござりました。
【「旧高松藩国事鞅掌に関する事実附三十一節」明治27年4月20日 『史談会速記録第22輯』】
 

国内で攘夷をあおり、日本が好戦的であるという姿勢を見せることで、外国との交渉を有利な形に持っていこうという考え、「内戦外和」です。

 

攘夷はポーズだけということは、彼らも「未来攘夷」派になります。

 

では、なぜ「即時攘夷」派が出現したのか?

それは斉昭や東湖の言葉を額面通りに受け取った連中がいたからでした。

 

旧薩摩藩士で歴史学者の重野安繹がこう語っています。

景山公(斉昭)は、決して鎖港(鎖国=即時攘夷)に固まる人ではない。
あれはただ一時の人心を安んぜしむる策略と見える。
もっともそれを輔佐したのは藤田東湖だ。

(中略)
その時分の賢諸侯の中で、水戸老侯(斉昭)をはじめいずれも眼識あり智略の勝れた方々は、決して攘夷の一筋に固まったことではない。

(中略)
幕府でも水戸でも、俊傑の見るところは同一で、詰るところ同じく開港説である。

(中略)
開鎖の論が右の通り分つて、本当に打明かして互いにやると云うになれば、仙台萩の酒井御前が言う通り、皆同腹同心ヂャ。
ところが不幸にして阿部伊勢守も死し、順聖院(島津斉彬)も病死致され、水戸老侯もやがて逝去になったので、とうとう開港説と鎖港説と二つにわかれてしまって、そこで衝突して紛擾(ふんじょう:もめごと)になって来た。

その本尊たる人々の意見は皆同じであったところが、それが亡くなったものだから、末社の神々が一方向きになって、開鎖互いに相闘うことになった。
これが幕府の末路で、とうとう幕府はそれで倒るるように立至った。
【重野安繹「西郷南洲翁逸話」 『重野博士史学論文集下巻』】
 

重野が「仙台萩の酒井御前‥‥」と言っているのは、歌舞伎「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」に出てくる栄御前のセリフ「皆心は同腹中」を指していると思われます。(歌舞伎はくわしくないので、間違っているかも知れません)

 

本来は皆「未来攘夷」だったのに、時間の経過とともに真意がわからなくなり、意見の対立が起きて、それが幕府の滅亡につながってしまったというのが重野の理解です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

via 幕末島津研究室
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