稚児と二才

前々回の「禁門の変での捕虜、扱いは薩摩と会津で大違い」でとりあげた、小松帯刀の従卒石黒勘次郎が長州人捕虜の扱いについて語った談話に、「中には十六ばかりの稚児(ちご)なども居りましたが、これは可愛がられました」という言葉がありました。

 

稚児というのは薩摩では元服(げんぷく)前の少年のことです。

元服はいわば武士の成人式で、少年であることをしめす前髪をおとして大人の髪型にあらためます。

 

元服年齢は時代や地域によって異なりますが、江戸時代では数え年で15歳~21歳くらいのようです。

 

元服をすませた青年は、薩摩では二才(にせ)と呼ばれて一人前の扱いを受けます。

 

石黒は「十六ばかりの稚児」と言っているので、これは元服前の少年だとわかります。

 

なぜ「可愛がられた」のか?

薩摩には伝統的に男色(現代でいうBL、ボーイズラブ)文化があったからです。

 

薩摩見聞記

旧長岡藩出身で明治22年(1889)に鹿児島の宮之城(薩摩半島北部、現在のさつま町)にあった盈進(えいしん)尋常高等小学校の教員(翌年には校長)として赴任し、2年半を薩摩で過した本富安四郎(ほんぶ やすしろう)はその著書『薩摩見聞記』のなかで、薩摩人の男色にふれています。

(読みやすくするため、一部の漢字を仮名にしてあります)

 

元来薩人は多情なり。その風俗のよく厳正なるを得たるは、一方には美少年の事あり。

(中略)
美少年の事はこれ封建時代の蛮風にして、もとより醜事に属す。

されども人欲遂に全く防止する能わず、ことに薩人の如く情感烈しき者にありては、これむしろ一方女色に溺れ柔弱に陥るの弊を救うて、青年の活気を振作するの一方便たりしなるべし。

隼人の先人けだし此の意をもって暗にこれを奨励して、もって士気を維持したるが如し。

故に薩摩の社会は公然これを父兄の前に談話して人異(あやし)まず、所謂「稚児歌」なるものを聞けば、
稚児様は高き所の桜ばな手は届かねど是非に一と枝
といい、
稚児ゆえに今朝の出船に乗りおくれ人こそ知らね陸を行くなり
という。

昔時此風の盛んなるや、美少年を呼ぶに稚児様をもってし、その出る時はあるいは美しき振袖を着し数多の兵児二才(へこにせ:硬派の青年)これを護衛し、傍よりは傘をさし掛け、夜はその門に立て寝ずの番を為す者あるに至る。

かの著名なる『賤(しず)のおだまき』のごときは彼らがもって金文の聖書となす所、座頭琵琶を弾じて平田三五郎の名を呼ぶに至ては、聴者皆一斉に「チェーストー」を叫ばざるなし。

この風近年次第に衰うるは喜ぶべきの事なれども、その反動として青年漸く女色に傾き、遊惰柔弱の輩次第に生じ来るに至っては深く歎ぜざるべからず。
【「風儀」本富安四郎『薩摩見聞記』】

 

賤のおだまき

薩摩の若者が聖書のように尊重した『賤のおだまき』というのは、江戸時代に薩摩で書かれた物語です。

 

戦国時代の薩摩を舞台に、美少年平田三五郎と青年武士吉田大蔵が契りを結んで義兄弟となり、忠義を尽くして戦場でともに死ぬ、というお話です。

 

『賤のおだまき』挿絵(明治18年 出版人市村丁四郎)

国立国会図書館デジタルコレクション

 

明治17年に新聞に掲載されたことでこの物語が全国的に知られるようになり、特に学生のあいだで大人気となりました。

 

当時は「女色=柔弱、男色=蛮勇」というイメージでとらえられていたようです。

明治35年にでた内田魯庵の『社会百面相』にはこのような記述があります。

 

俺は男色宗だ。
男色は陣中の徒然(つれづれ)を慰める戦国の遺風で、士気を振興(ふるいおこ)し国家の元気を養う道だ。
少なくも女色に耽(ふけ)るものの柔弱を救うに足る。

賤の小田巻(おだまき)を読んで見い。
今の柔弱な恋愛小説と違って雄心勃々(ゆうしんぼつぼつ)として禁ずる能わずだ。

(中略)
今の社会はハイカラ空気があるが、女学生の臀(けつ)を狙うようでは猶(ま)だ話にならぬ。
衣服(なり)ばかりビラシャラして女義太夫を追駈ける、女学生を狙う、発句(ほっく)をつくる、恋愛小説を書く、イヤハヤ愛想が尽きる、嘔吐(へど)が出る、我々青年は此の柔弱なハイカラ空気を一洗する為め大いに蛮勇を鼓吹(こすい)する必要がある。

男色を奨励するのもストライキをして教師を征伐するのも、要は此の蛮勇を振うに外ならんのだ。
【「学生」内田魯庵『社会百面相』 明治35年博文館】
 

女義太夫というのは現代の女性アイドル歌手のようなものですから、明治時代にもアイドルの追っかけがあったのですね。

 

発句は連歌の最初の句(五・七・五)で、明治中期以降は俳句の意味でも使われるようになりましたが、男子たるもの和歌や俳句ではなく漢詩をつくるべきだということでしょうか。

 

男色で士気を高める

男色は「戦国の遺風」と言っていますが、これは事実です。

 

薩摩で盛んだった理由については本富安四郎も書いていましたが、こういう説明もあります。

 

 

二才(にせ:青年)が美少年を愛するという風習は、いつの時代からあったかははっきりしませんが、織豊時代にはすでにあったことで、特に陣中生活の多い戦国時代には、武将にはつきものだったようです。
小姓の起こりがそれで、例えば、織田信長に対する森蘭丸のようなものです。

しかし士道をうんぬんするということはなかったようです。
薩摩においては、島津義久、義弘両公の時代から、士気振興のため起こったことで、青少年が女色にふけることを厳禁し、これを犯すものは最大の恥辱として大制裁を加えたらしく、他国人より人一倍血の気の多い薩摩武士は、自然男色というものに傾き、そして盛んになったわけです。

そのころの藩では、むしろこれを奨励して、吉田大蔵清家、平田三五郎宗次の物語などをあらわして、稚児、二才の関係を盛んにしていたようです。
【鹿児島市学舎連合会編『薩摩兵児謡 士魂』昭和60年改訂新版(初版は昭和43年)】
 

男色文化は武士だけの話ではありません。

はじめて日本にキリスト教を伝えたザビエルは、手紙にこのように書いています。

 

一般にここ(鹿児島)にいる信徒は僧という者たちほどみだらなところがなく、道理に従っています。

僧は言語道断の情欲の限りを尽くし、何をしても平気な顔をしています。
ここでは男も女もみなこの疫病にかかっているので、そのような犯罪を忌み嫌う気持ちも恐れる気持ちもなくなってしまいました。

(中略)
こちらが僧にそのようなみだらな行いをやめるように警告すれば、彼らは笑って、からかい半分に私たちの批判を退けます。
どれほど厳しく批判しても向こうは鉄面皮になるだけです。
みだらなあまり何も感じなくなってしまうのです。
【ピーター・ミルワード 松本たま訳『ザビエルの見た日本』 講談社学術文庫】
 

ザビエルは手紙の別の部分で「僧は(中略)女性には近寄らず」と書いているので、この「みだらな行い」というのは想像がつきます。

 

そうして、信者たちが僧の「みだらな行い」を気にしていないことにあきれています。

 

ザビエルのいた当時のヨーロッパでは、同性愛は「ソドミー」と呼ばれて迫害の対象でした。

しかし日本では、男色は男性の士気振興につながるとして許容されていました。

文化の違いを感じますね。

 

via 幕末島津研究室
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