市街戦で起きた大火

禁門の変は京都の中心部でくりひろげられた戦闘です。

 

軍隊の衝突となったので、鉄砲や大砲など火薬を用いた武器が使われました。

その結果、京の町中は大火災となります。

 

「鉄砲焼け」「どんどん焼け」とも呼ばれるこの火事は、京都のほぼ半分を焼き尽くして大被害をもたらしました。

 

火事の混乱の中で、投獄中の志士たちも処刑されています。

禁門の変は京都に大火を引き起した。
公家邸数十家、市中家屋2万8000戸が焼失、20日には火の手が六角獄舎に及ぼうとしたので、囚人33名が斬殺された。
【宮地正人『幕末維新変革史 上』】

六角獄舎には勤王の志士たちが収監されていましたが、火災の混乱で脱獄されることを恐れた幕府役人によって全員が斬首されてしまいました。

 

その中には西郷隆盛が勤王僧月照と錦江湾に身を投げたとき一緒にいた平野国臣や、新選組に拷問されて池田屋事件の発端となる自白をした古高俊太郎などがいました。

 

火元は複数

この大火の火元は1ヶ所だけではなく何カ所もあり、それぞれで発生した火災が合流して三日間燃え続ける大火事になったのです。

原因は戦火プラス放火です。

 

明治45年の史談会で、京都出身の元陸援隊々士谷口庸徳がこのように語っています。

只今申しました蛤御門の方はどうかというと、その戦争に際しまして、その近傍は兵燹(へいせん:戦争のために起こる火事)にかかって燃えております。

戦争は盛んでございましたが、会津公が九條さんの裏門から大砲を引き入れまして、表門に出まして鷹司家の屋根を目がけて焼玉を抛り込みました。

それから鷹司さんの方からも一方盛んに火が発しますということで、そうしますと今度京都の河原町三条上ル所に長州の屋敷がありました、これへも焼玉を入れました。

それ故に三方四方から市中が焼けまして、遂に三日二晩というものは焼け通しでございます。
【「戊辰前京師情況の実談附二十六節」『史談会速記録 第229輯』】
 

鷹司邸というのは長州に好意的な前関白鷹司輔熙(すけひろ)の屋敷で、御所の九門のひとつ堺町御門に隣接しています。

 

久坂玄瑞ら長州兵の一隊はこの堺町御門から突入しようとしましたが、守備する福井藩兵にさえぎられて入ることができません。

 

そこで隣にある鷹司邸を抜けようとして長州軍が入り込んだのですが、これを知った会津軍が鷹司邸に焼け玉(大砲の砲弾を炉で真っ赤になるまで加熱したもの)を打ち込んで、屋敷を炎上させたのです。

 

この戦いには福井藩や会津藩に加え、桑名・彦根・薩摩の各藩も応援に駆けつけたので、長州勢は大敗を喫し、久坂は鷹司邸内で自刃しました。

 

 

御所周辺図 黄色丸=蛤御門、青色楕円=堺町御門(西四辻蔵版京都絵地図 部分)

 

町家にも放火

一橋慶喜が指揮する幕府軍はさらに攻めたてます。

 

一橋家の側用人だった猪飼正為(いかい まさため)が明治42年の史談会で語った話です。

 

この鷹司邸に居る所の賊徒は皆分散しましたけれども、市中に潜伏するものがあってはというので、それから段々手分けをして市中を捜索しますと、随分ある。

それから公卿の家などに隠れて居る者は、いちいち捕縛する事はできぬ。
それで確か、これは会津藩で放火したと思います。

その放火した火というのは、実に洛中を、まるで火で包んだと言っても宣いくらいな訳でございました。

およそ三日間ほど、その火は消えずに居りました。
【「元治甲子禁門侵入事件実歴談附四十節」『史談会速記録 第204輯』】
 

鷹司邸から脱出して京の町中に潜伏する長州兵を、文字通り「あぶり出す」ために、会津藩が放火したと言うのです。

 

会津藩の放火については、薩摩藩で小松帯刀に随従していた石黒勘次郎も明治27年の史談会でこのように語っています。

 

(寺師宗徳)
それから、市中に火を点(つ)けたのは何藩であったか、市中の人は恨んだであろう。

(石黒勘次郎)
それは会津が点けたのです。
会津が一度蛤御門で敗軍したところに、屋敷の方が勝ちいくさになった故、また纏(まとま)って来て鷹司の邸へ行き、ただちに火を点けてしまいました。

それから市中其処此処(そこここ)にまだ潜伏して居るというので火を点けましたから、二日二晩、誰も消しもせず焼け放題に焼けてしまいました。

御所から此方(こちら)は何とも無かったが、賑やかな所ばかり――東京で言うと下町という処がまるで焼けてしまいました。

京都の人は会津の人を大変に怨んだそうです。
【「元治元年京都乾蛤両御門戦闘の始末附十一節」『史談会速記録 第37輯』】

甲子兵燹図(京都大学付属図書館所蔵)

 

京都の人にうらまれた会津藩ですが、この放火は会津の独断ではありません。

 

旧会津藩士北原雅長が明治のなかばになって刊行した『守護職小史』には、

中納言(慶喜)殿は、かくて戦争長時間に陟(のぼ)らんには、異図の堂上等如何なる椿事を生ぜんも知らず。

万一聖上に迫り奉りて非常の御沙汰等有らんには天下の大事徳川氏の存亡今日を出ずと察し給へければ、止むなく蛤御門堺町御門の裏手より火を放つべしと命じ給いけり。

折節我兵大砲を放ちて鷹司邸の墻角(しょうかく:塀の隅)を破り進んで火を放ちけり。

蛤御門の裏手より火起りたるに折節北風烈しかりければ、炎焔天に漲(みなぎ)り、日光為に赤し。

賊は籠るべき方もあらず成にければ、尽く敗れて遁(のがれ)去りけり。
【『幕末維新史料叢書4 逸事史補・守護職小史』人物往来社】

と書かれています。(原文はこちらの最終行から)

 

「異図の堂上等如何なる椿事を生ぜんも知らず(=考えの違う公家たちがどんなハプニングを引き起すか分らない)」というのは、戦いが御所近くで始まったため、臆病な公家たちがパニックになっていたからです。

 

公家たちは口々に、「早く和睦して長州の罪を許せ」「天皇を御所から比叡山にお移ししろ」など勝手なことを叫んでいたようです。

 

このような混乱を収めるために、慶喜は、早く決着をつけようとして放火を命じたのです。

 

実行役の会津藩がうらまれる結果になりましたが、元はといえば臆病な公家たちのせいだと言えましょう。

禁門の変では来島又兵衛や久坂玄瑞など長州藩士の戦死に目が行きがちですが、会津藩も20名が戦死しています。合掌。

 

京都黒谷にある会津墓地(ブログ主撮影)

没年が「元治元甲子年」と刻まれている墓は、禁門の変で戦死した藩士のものかと

 

 

 

 

 

 

 

via 幕末島津研究室
Your own website,
Ameba Ownd