島津家のオーラルヒストリー

『久光親話記』というのは久光と長男忠義(島津宗家29代)および四男忠済(玉里島津家2代)との会話を筆記したものです。

 

その前書きには、久光没後の明治22年に宮内庁から、忠義と忠済に「故久光の国事上の親話を記して提出せよ」との命が下ったから作成したと書かれています。

 

忠義らは久光の生前に、維新前後のできごとや久光の考えを聞いたときのやりとりを記録していたので、その内から「現今の時勢に関して緊急と認めたる条項を選択して」2編を作り提出しました。

 

出版物としては『「明治天皇紀」談話記録集成 全9巻』に収録されていますが、宮内庁のホームページに書陵部が保管している写本(こちらが談話記録集成の原本)が公開されています。

 

平仮名がくずし字で書かれているため読みにくいのですが、そのなかに興味ぶかい話がありました。

薩長同盟のルーツになると思われる「秘話」です。

 

長州との戦闘を回避せよ

元治元年(1864)7月、禁門の変によって朝敵となった長州を征討せよとの勅命を得た幕府は、同月24日に薩摩など西南21藩に出兵を命じました。

征長軍の総督は前々尾張藩主の徳川慶勝、実質的な指揮官となる参謀は西郷隆盛です。 

 

じつはこのとき西郷は「外国の介入をまねくきっかけとなる内戦を回避せよ」という久光の極秘指示を受けていたという話が語られています。

 

戦いになれば国内が疲弊するため、寛大な処分で戦闘なしの和平に持ち込めという指示です。

 

当時薩摩と長州は激しく対立していましたが、久光は、長州を潰せば日本の総力が減少し、植民地化の機会をうかがう外国を利するだけだと考えて、このような指示を出したのでしょう。

 

西郷の支援で救われた長州は薩摩に対する見方を変え、それがのちの薩長同盟につながっていくのです。

 

この話は明治26年6月の史談会でも市来四郎が語っていますが出所は久光の談話だけですから、これを信用するかどうかは皆さんの判断にゆだねるしかありません。

ただ、興味深い話なのでご紹介させていただきます。

 

かなり長くなりますが、該当部分(宮内庁ホームページでは29~36/48)を引用します。

(原文のひらがなは現代の字体に変え、適宜句読点をおぎなっています)

 

島津久光肖像(公爵島津家記念写真帖)

 

忠義曰(いわく) 今の政府は薩長政府と唱え、其上折合がよくないと世上一般に唱え立、新聞紙などにも毎度記し有之(これある)様に御座候。

一体不和の源(=原)因は今日でないことで久しき起りに候わん。

必竟愚直なる鹿児島人も追々覚り、其末が今日の不和のもとで、互に解け兼(かね)候ことと存候。

元治元年の夏長州征伐の時分、西郷は尾張総督の前にて平穏策を建言致し、夫(それ)より吉井又は高崎〔五六:小字原注〕などを岩国へ遣し、西郷も広島まで出掛け吉井(吉川の誤り、吉川家は長州毛利家の支族で岩国の領主)と談判におよび、遂に謝罪と相成候始末は甚だ入り組たる次第にて、当時外国よりは難題を云い掛け、大坂開港などを迫り、内には人心定まらず、浪人などが剛情にて種々猜疑の媒(なかだち)となり、不和を唱うる処となりしと存候。
                           
 久光曰 その事は余程六ヶ敷(むずかしき)事情にて、大久保・小松・西郷なども論の合ぬ事もありたり。

初め征伐仰出に相成るよう朝廷に奉迫(せまりたてまつる)こと度々におよび、朝廷には長州贔屓(ひいき)の宮・堂上方ありて、何に付け彼に付け延引におよび、其うち浪人や長州人は様々に謀り、宮・堂上方をすかし立、それを説き破るには誠に六ヶ敷、諸大名の内にも因州(鳥取)・岡山・対州(対馬)・福岡などは長州加担であるゆえ、堂上方へ種々申込みたるより、征討の御発令因循なるには幕府も諸藩も甚だ不平をならし、漸く責付(せめつけ)御発令となりしより、紀州に惣督を命ぜられしが、段々故障を云い立て断(ことわり)に成りしことなどは内情ありての事なり。 
 
夫れより尾州に惣督を命ぜられしに、是も初の程は何の彼のと辞する模様なりしを、此方も諸藩にも一同責め付て御請と成りたる次第にして、其時大膳父子(長州藩主毛利敬親・元徳父子)の死一等を減じ、何れの藩にか一世幽囚し、巨魁の家来は死刑に処し、中位のものは入牢又は遠流(おんる)に処し、国は没収し家跡は末家より相続させ、五六万石位与えるなどの朝幕の議に出て、諸藩も大抵同様で、殊に幕府は初め厳重な吟味にて、むかし関ヶ原の例浮田(=宇喜多)秀家などの様に家跡没収、大膳父子は死一等を減じ遠流などと云うことなりしよし。 

実は内々相談の様なこともありしゆえ、大久保には至当なりと申し、西郷にも今の勢に乗じて攻禿(せめはが)し根を断(たた)ずしては又々後に害を引起すと云い、小松は大久保と少し違い大膳父子は死一等を減じ諸大名の内に御預け、其余は幕議に同じかりしと覚えたり。 
 
 其時己(おれ)が考には、当時外夷は兵庫開港等を迫り、内には長州は勿論、諸藩の帰嚮(きこう:心をよせる)も不分(わからず)、反復無極(きわまりなき)がゆえ、勢の強きに傾くは案中なり。

浪人どもは諸方に潜伏種々事を謀り、朝議は四分五裂の形況、実に内外の混雑一方(ひとかた)ならず。 

外夷の処分も如何様にか治定(じじょう)なくては叶わぬ訳ゆえ、兎角(とかく)内を早く治め、其上外夷の処分に不取懸(とりかからず)してはすまんことと思い、大久保などへ己が考を申し聞け、むかし秀吉薩摩入りのことなどの例をひき、秀吉だけありて和解をすすめたではないか、夫れゆえ島津家においても幸い、秀吉に於ても早く軍を凱(がい)したるに非ずや。
又家康の武田を討(うち)しときにも寛大の処分ありしではないか。 
 
そんなもので兎角寛大の御処分にて早く内を治め、其上外夷の処分に取懸るようなくては、長州を攻禿(せめはが)したりとて夫れきり天下が治ると云う訳にはゆかず。
たとい治りたるにもせよ外国の大事件あり、殊に窮鼠なれば後害もあるに相違なし。

寛大にしておけば、丁度秀吉へ龍伯様〔一六世の祖義久:小字原注〕・維新様〔一七世の祖義弘:同〕の御親み厚くなりしが如く、彼方にも心を取りなおし其恩に感じて朝廷の御為になるべし。 

今日の勢にて打禿(うちはが)すことはいと易きことなり、諸大名各兵を出して四方より取まけば、孤立して長くもちこたゆるものに非ず。
因州や備前など三四藩も、長州に援兵でも出すことは出来ぬ訳なり。
たとい出したとて用立(ようだつ)ことにあるまじと種々申聞けたり。 
 
西郷も大久保・小松も口を揃え至極妙案なりと申したり。

其時西郷云うには、御尤の見据えなれば其通の趣を以て、この御方には論を立て可申(もうすべし)。

何分爰(ここ)に至り候ことゆえ天下の兵を国境まで繰り出し、四方より囲(かこみ)を付け候場に致し、然して後策を用いて降伏致させ候様に仕(し)候(そうら)わば、必ず見込の如く降伏可仕(つかまつるべき)は必上(=必定)。

其上寛大の御処分御建言もありたし。則ち秀吉薩摩入りのような訳に相成り、後には却て御為め筋為相働(あいはたらかせ)候場になり行き可申(もうすべし)。

彼方にも今は至極切迫にて、国中異論も多きよしに相聞え候ゆえ、喜んで降伏の場に可相運(あいはこぶべし)。

就いては御沙汰通り方向を立てなおし、吟味の機会を以て幕府へも申上、取計(とりはからい)可仕(つかまつるべく)、此儀は私共へおまかせ被下度(くだされたし)。

決して趣意に違はざる様やり付け可申(もうすべし)と云いしゆえ、まかすと申聞(もうしきけ)置きたり。
 
(中略)
その後己は帰国したゆえ、小松・大久保・西郷などが吟味して、表には征討を専(もっぱら)に唱え、内実は吉川へ説得の手数におよびしに、吉川も幸いに存じ三暴臣を伐(き)り、大膳父子の謝罪と云うことに決したり。
 
 小松・西郷などは右通、前以て内吟味の趣に基き出兵を速に催し、此方よりも相応の人数を繰り出し、諸藩にも追々諸方に出軍。
 
尾張惣督も大坂より芸州まで出張せられ、その時大坂において惣督の陣屋へある日西郷・大久保出頭して軍議ありしに、両人は兼(かね)て見込の趣論談におよびしに、惣督も同意となり、列席の人々にも異議なき故、両人に御委任までも相願い、然して西郷は吉井などと芸州宮島まで踏込み、芸州の家老辻〔将曹:小字原注〕などを以て吉川に引合い、宮島へ吉川が家来を呼び出し説諭におよびしよし。 
 
その前に西郷は高崎五六を窃(ひ)そかに芸州まで遣り、吉川方へ説諭におよび、承伏の内話は出来た上のことで、後西郷・吉井などは談判調いし上、岩国へ参りたるよし。

(中略) 
このよう内策ありしことを、今生て居るものに知りて居るは、岩下と吉井の両人どもならん。

其時分、小松・大久保・西郷・中山の両三人の外知る人なく、其後吉井・岩下両人には趣意極(ごく)内申聞せ度(たり)と申したることあり。 
【『久光親話記1』大正6年写 宮内庁公文書館所蔵】

 

久光の考えは、「内を早く治め(=国内を早くまとめて)、その上で外夷の処分(=外国との対応)に取りかからなくてはならない」ということでした。

 

さきに述べたように、このころ薩摩と長州は険悪な関係にあり、薩摩藩内は「この機会に長州をつぶしてしまえ」という意見で盛り上がっていました。

 

しかし久光は、兄斉彬の遺志である「日本を西洋列強の植民地にさせない」ためには、なんとしても内戦を回避しなければならないという思いから、この指示を出したのです。

 

久光の話にあるとおり、高崎五六が9月30日に岩国に行って長州の分家である吉川家の重臣に面談し、薩摩藩が全力で和平の周旋に当るから吉川家も協力して欲しいと申し出て、了解をえています。

 

その後11月4日に西郷隆盛が吉井友実らと岩国をおとずれて当主の吉川経幹(きっかわ つねまさ)に会い、禁門の変で出兵した三家老の首級を早く差しだして謝罪させるよう申し入れました。

 

経幹はただちに動いて長州藩を説得、長州は西郷の指示通り三家老を切腹させて幕府に恭順の意を示したので、幕府と長州の戦闘は回避されました。

 

西郷を嫌っていた久光ですが、この時ばかりは西郷をほめたそうです。

 

 

via 幕末島津研究室
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