藩外に出して蘭学を学ばせる

斉彬が薩摩藩の教育内容を「教養」から「実学」に変えようとしたことは、「島津斉彬の教育改革(3)」でお話ししました。

 

特に力を注いだのは西洋の科学技術や医学、つまり蘭学です。

 

しかし当時の薩摩にはそれを教えられる先生がいませんでした。

となると藩外で学ぶしかありません。

 

じっさい嘉永4年(1851)に藩主となって帰国(5月)してから間もない10月に、3人の藩士を長州に送り出し、蘭方医青木周弼(あおき しゅうすけ)のもとで蘭学を学ばせています。

 

留学先を長州にしたのは長崎や江戸・大坂では刺激が多すぎて学業に専念できないことを懸念したためといわれています。

 

翌嘉永5年初夏には、長崎で蘭学を学び蘭医モーニッケの指導をうけていた藩士八木称平(やぎ しょうへい)を、大坂で緒方洪庵(おがた こうあん)が主宰する適塾に入門させました。

 

長州で学んでいた3人については修行態度が良好とみとめられたようで、安政元年(1854)参勤途中の斉彬の指示により、適塾に移りました。

同時に八木には適塾をはなれて、江戸で伊東玄朴が教える象先堂に移るよう指示しています。

 

斉彬は若いころより多くの蘭学者と交流していましたから、学習の進歩度合に応じて教育環境をレベルアップさせるために、このような指示を出したものと考えられます。

 

ついでながら、この八木称平は「近世薩摩が生んだ蘭医中の蘭医」とよばれたほど優秀な人材で、当時日本中で流行していた天然痘の予防策となる牛痘をひろめることについて大いに貢献しています。

 

彼はオランダ人医師ポンペが著わした牛痘の解説書を翻訳し、『散華小言』と題して刊行しましたが、これによって日本人医師でも牛痘を行なうことが可能となり、天然痘患者を大幅に減らすことができたからです。

 

将来を嘱望された八木でしたが、惜しくも慶応元年に33歳の若さで亡くなってしまいました。

 

八木称平(鹿児島市編『洋学者伝』ブログ主所蔵)

 

留学生の選考基準見直し

前回「島津斉彬の教育改革(4)」では、貧窮士であっても勉強できるように「奨学金制度」を創設したことをご説明しました。

斉彬は留学生についても同様に、藩が費用を負担するようにしています。

 

当初は二人賄料(年12両、米3.6石)でしたが、都会での生活で費用がかさむためか、のちには三人賄料(年18両、米5.4石)に増額されています。

 

留学生選考については、最初はさきに述べたように斉彬が指名したものの、後には藩校である造士館が行なっていたようです。

 

ところがこの選考に問題があって、安政4年(1857)9月にこのような通達がだされています。

(わかりやすくするため現代文に意訳、原文はこちら

 

江戸その他へ学問の稽古に行きたい者は、造士館に願い出るように仰せ付けられていた。

それで造士館教授が担当して評定を行なってきたが、造士館内の成績だけで判定していたため、造士館に出席できない者は評定の対象とならなかった。

もともと勉強するために他国に出るのだから、成績が良いかどうかで判断するのではなく、今は未熟でもこの先本当に勉強を続けるという人物を選ぶようにせよ。

困窮して生活費が欲しいだけで志願してきたような心得違いの者を選ばぬよう、人選は慎重に行なうことを教授以下に申し付ける。

学ぶ内容は、きちんとした学問であれば、折衷学や水戸風の学問でもかまわない。

朱子学にこだわって漢詩や漢文が上手になっても、現在の情勢を理解できないのでは勉強する意味がなく、見識のない学者と一生言われ続けるだけだ。

学問修業を志望する者には、このような心得違いをしないように申し聞かせよ。
【「五〇三 書生遊学勧奨及ヒ学風匡正ノ訓令」『鹿児島県史料 斉彬公史料第二巻』】

 

そのころの評判では、造士館の教授たちは朱子学を尊重するあまり中国にしか興味がなく、自国である日本の歴史や思想についての知識はなかったそうです。

 

斉彬は今後外国と対峙することがわかっていたので、日本の歴史や思想をきちんと知っていることの大切さを痛感していました。

それゆえの通達だったのでしょう。

 

ついでにいうと、「学習意欲」という判定基準を示された造士館の教授たちはさぞ困ったことと思われます。

 

というのも、現在でもそうですが、学校の先生が持っている評価の基準は「成績」しかないからです。

 

斉彬から「将来の学習意欲で判定せよ」と言われて、困惑する造士館教授たちの顔が目に浮かぶようです。

 

 

 

 

 

 

via 幕末島津研究室
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