無学な役人を嘆く

嘉永4年(1851)の2月に家督をついだ斉彬は、3月9日に江戸を立ち、国元に帰ります。

 

5月9日に鹿児島城(鶴丸城)に着くと、16日には最初の親書を出して、「このたび家督をついだが、自分では気がつかないこともあるだろうから、だれでも遠慮なく意見を申し出るように」と命じました。

 

これは藩の実情を把握することに加えて、優秀な人材を見つけるという目的もあったと思われます。

 

復元された鹿児島城御楼門(ブログ主撮影)

 

島津斉彬の教育改革(1)」でものべたように、当時の薩摩は武勇を重んじて学問を軽視していました。

 

明治25年の史談会において、市来四郎の甥で島津家歴史編纂員の寺師宗徳(てらし むねのり)がこのように語っています。

 

斉彬が世を継がれたる際、何か藩政改革の達し文を用人に認(したた)めさせた時に、改革という文字を知らぬ位であったとて、斉彬はそれを非常に歎息せられたことがあると聞きます。

それから治政八年の間に土台から固められたのであります。
【「慶応三年丁卯十月小御所会議の事実附十一節」『史談会速記録』第5輯】

 

斉彬が藩内に向けて通達を出そうとして、書記役に口述筆記させたときのことです。

その際に「かいかく」と言ったら、書記役がその言葉を知らずどのような漢字を書けばよいか分らなかったので、藩士たちの学力の低さを嘆いたというエピソードです。

 

なぜ学力が低いのか?

薩摩の武士たちが武勇を重んじて学問を軽視していたことは以前にご説明しましたが、原因はそれだけではありません。

 

ご存知のように江戸時代というのは身分制社会ですから、どういう家の何番目に生まれたかでその人の人生が決まってしまいます。

 

下級武士の家に生まれた子供は、どれほど優秀な人物であっても家老にはなれません。

 

逆に家老の長男であれば、よほどひどいしくじりをしでかさないかぎり、まず間違いなく家老になれます。

 

禄高(=年収)も家に付随したものですから、ほとんどの場合は変化がありません。

努力しようがしまいがポストにも年収にも変化がないとしたら、たいていの人は苦労して勉強などしたくないでしょうから、学力が低くなるのも無理のない話です。

 

さらにいうと長男以外はいわば「生まれながらの失業者」で、いくら優秀であっても、どこかの養子になるか兄が亡くなるかしない限り、社会人として生きていくことはできません。

 

こちらも勉強する動機付けに欠けるようです。

 

奨学金制度を創設

このような状況を憂えた斉彬は、学問で出世できる道をつくりました。

 

当時の社会情勢ですから一定の範囲に限られてはいましたが、家柄オンリーではなく、優秀であれば下級武士でも抜擢するようにしました。

 

さらに生活に追われて勉強する時間すら取れない貧しい藩士にも学習機会を与えようと、奨学金制度を創設します。

 

すなわち嘉永4年(1851)12月に出した「学生稽古扶持給与達書」で、造士館の学生で学問の志がある者でも困窮していては存分に勉強に打ち込むことができないだろうから、来年1月から年4石の稽古扶持を15名にあたえる、成績優秀であれば翌年以降も継続すると告知しました。

 

年4石というのは薩摩藩における最低水準の年俸にあたるので、いわば新卒初任給並というところでしょう。

 

斉彬と鍋島直正(2/6)」でものべたように、斉彬は意欲と能力がありながら貧困のために学習できない者をなくそうとしました。

 

その手はじめが稽古扶持という名の奨学金だったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

via 幕末島津研究室
Your own website,
Ameba Ownd