他の大名たちから田舎者と言われ、改革を決意

前回は武勇を偏重して学問を軽視する薩摩の国風について書きましたが、斉彬以前にこれを変えようとした藩主がいました、島津家25代当主で斉彬の曾祖父重豪(しげひで)です。

 

島津重豪肖像(ウイキメディア・コモンズ)

 

重豪は24代当主(7代藩主)重年(しげとし)の嫡男で、重年がまだ分家の当主だったときに生まれたため、10歳になるまで薩摩で育ちました。

 

父が藩主となったので、世子(世継ぎ)である重豪は幕府の定めにしたがい江戸藩邸にうつり住むこととなります。

 

そうして他の大名たちと交際をはじめるのですが、江戸育ちの大名たちからは「田舎者」と言われて恥ずかしい思いをしたようです。

 

明治26年の史談会で、島津家事蹟調査員の市来四郎がこのように語っています。

重豪公は世子となられて江戸に御出になって、大広間の大名方の御交際もはじめられて、その時分は御大名中の御交際ははなはだ放逸なものであったそうですが、言詞が薩摩唐人とか或は芋武士とか云われたこともたびたびあったそうです。

それが御残念で言行共に御研究なされ、元来英邁機敏でござりますから、直ちに衆にぬきんでられたそうです。

そこで、政務万端野鄙な国風を一変して、江戸風にしようと云うことになりまして、種々なことに御手を付けられたそうです。
【市来四郎「薩摩国風俗沿革及国勢推移と来歴附二十六節」 史談会速記録第34輯】

 

大広間というのは、外様で一国を所領(国持ち)するような石高の大きな大名たちの、江戸城における控室(殿席:でんせき)です。

 

この殿席は外様、譜代、国持かそうでないかなどによって分けられていました。

 

ちなみに、石高で最大の加賀前田家のみは、外様ながら御三家と同じ「大廊下」という特別席が与えられていたので、大広間で最大の石高は島津家です。

 

とはいえ、大広間という同じランクの大名同士なので、島津家の世子に対しても遠慮などしなかったのでしょう。

 

薩摩弁や田舎っぽい仕草を馬鹿にされた重豪は、言葉やふるまいを猛勉強します。

 

もともと頭脳明晰でセンスもよかったので、すぐに追いついて、他の大名たちをしのぐほどになりました。

 

そうなってみると、目につくのは自分のやぼったい部下たちです。

 

バンカラな薩摩武士を都会的に変えようとしたが失敗

さきに述べたように当時の薩摩の習俗はほとんど戦国時代のままで、江戸や京大坂の洗練された文化にはほど遠いものでした。

 

重豪は薩摩侍の他国に通用しない言語や粗野で不敵な風貌を改めようとして、大改革を行ないます。

 

学問をさせるために藩校造士館をつくり、さらには武道をおしえる演武館、医師を養成する医学院や薬草園、暦を作るために天文学を研究する明時館(天文館)などさまざまな文化施設をつくって薩摩武士の文化レベルを上げようとしたのです。

 

『三国名勝図絵』より「造士館」

(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

重豪は薩摩から出たことがなく粗野な状態しか知らない藩士たちを他国の洗練された文化に触れさせるため、他国人の薩摩への入国を自由にしました。

 

そうして上方から芝居や相撲、芸妓までも大いに招き、舟遊びや花見も奨励します。

これらは薩摩のひとびとに大きな刺激をあたえるものでしたが、その結果は重豪の望んだ文化的向上をとおり越してしまいます。

 

遊びの楽しさをおぼえた藩士たちによって薩摩の士風は急速に軟化し、文化人はふえずに蒙昧で軽薄な侍が増加しただけで、重豪の期待にこたえることができませんでした。

 

斉彬を西洋文化に触れさせる

藩士たちを文化人にすることに失敗した重豪ですが、彼は『蘭癖』(西洋かぶれ)と称されるほど海外の文物とくに博物学に強い関心をいだき、イグアナやオランウータンの剥製まで持っていたそうです。

 

重豪のコレクションを収める聚珍寶庫(しゅうちんほうこ)は、国内外の珍しいものを集めた、今でいうと博物館のようなものでした。

 

とくに鳥類が好きで『鳥名便覧』という鳥名辞典をみずから編纂したほか、琉球や屋久諸島の草木の薬用効能を調べた『質問本草』、農業生物百科全書というべき『成形図説』などさまざまな書物を出版しました。

 

また、海外の知識を得るために必要となる語学の習得にも熱心で、中国語学書『南山俗語考』(南山は重豪の号)も編纂しています。

 

そんな重豪が目の中に入れても痛くないほどにかわいがったのが、ひ孫の斉彬でした。

 

幼い斉彬が訪ねていくと上機嫌で、コレクションを見せたり、古今の戦記や英雄義士の行ないなどを話して聞かせたそうです。

 

文政9年(1826)オランダ人医師シーボルトが商館長スツレルに従って江戸に来たときには、当時18歳の斉彬を連れて会いにいき、重豪はオランダ語を交えながらシーボルトと対談しています。

 

斉彬はこの曾祖父の影響をつよくうけて育ったので、海外に興味をもつようになったのでしょう。

 

 

 

 

via 幕末島津研究室
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