薩摩武士の理想像は「ぼっけもん」

薩摩の武士は薩摩隼人とも称され、勇猛果敢なことで知られています。

 

その薩摩隼人たちから神のごとく慕われたのが、戦国時代の猛将島津義弘(島津家17代当主)です。

 

天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いにおいて西軍に属した義弘は、戦いの最中はまったく動かず、西軍の負けがはっきりしてから正面に布陣した徳川家康の本陣に向って突進し、その横をすり抜けて戦場脱出をはかりました。

 

しかし家康が黙って通すわけがありません。

 

徳川軍団最強といわれた本多忠勝と井伊直政に命じて島津軍を追撃させ、ここから薩摩兵たちの壮絶な戦いがはじまりました。

 

義弘は甥の島津豊久や家老の長寿院盛淳(ちょうじゅいん もりあつ)ら多くの家臣を失いながら、脱出に成功しますが、関ヶ原にいたおよそ1,500人の薩摩軍のうち、義弘とともに故郷に帰れたのはわずか80人ほどでした。

 

この「世界史でも前代未聞の前進退却戦 ありえない敵中突破」(歴史作家桐野作人氏の言葉)は「島津の退き口(のきぐち)」と呼ばれて、薩摩武士の強さを日本中に示しました。

 

その薩摩武士たちが理想とした姿が「ぼっけもん」です。

 

これは薩摩の方言で、平時には無礼・無作法であってもいざ合戦となれば死を恐れず勇猛果敢に戦う人物です。

 

薩摩武士は神格化された名君義弘を慕うあまり、江戸時代においても戦国の遺風を色濃く残しつづけていましたから、薩摩の若侍の多くは「ぼっけもん」にあこがれていました。

 

『大石兵六夢物語 上』挿絵(明治17年 国立国会図書館蔵)

本書は薩摩人毛利正直(1761~1803)著の妖怪退治物語。

この絵は主人公大石兵六(中央格子柄)と友人たちが相談している様子で、みんな異様に長い刀を差して勇猛を競っており、兵六の隣で背を向けている人物などは着物に「喧嘩を売る人有れば則(すなわ)ち買うべし」と大書しています。

 

「ぼっけもん」にあこがれる若者は学問を軽視

島津義弘は戦国の猛将として知られていますが、じつは学識豊かな文化人でもありました。

 

義弘は、父祖の教えを良く守り、神仏を崇敬すること誠に厚く、神社・寺院の参詣、社寺の修復や寄進も多くし、また学問を良くして古今集・千載集・拾遺集・論語などを愛読し、士民にも広く学問を奨励しております。

義弘は、和歌や連歌・琵琶歌にも優れた作を数々遺しましたが、「惟新公御自記(いしんこうおんじき)」は自らの軍功・武功などをまとめた優れた作品として知られています。

また、義弘は忙中にも閑を得て、近衛竜山の書を学び、茶の湯をこよなく愛しましたが、茶道は千利休居士によって奥義を極めたほどで、それは利休編「惟新様より利休江御尋之條書」によっても識ることができます。

その他、義弘は金創医術とも云われた民間伝承の医術にも、極めて精通しておりました。
【島津修久『島津義弘の軍功記 増補改訂版』島津顕彰会】

 

つまり義弘は文武両道に通じた人物だったのですが、彼をしたう薩摩隼人たちは文武のうち「武」のみを偏重して、「文」は軽視しました。

 

斉彬に仕えた市来四郎が、明治26年の史談会でこう語っています。

 

薩摩は元来武断主義のところでござりまして、文学(学問)は甚だ拙(つたの)うござります。

私などが十七八、二十ばかりの時分は、学問をするには友達などには隠して学ぶというような風習で、幼年の者を教育するには「青表紙(書物)を担いで軍(いく)さが出来るものでないと、学問を卑しめ、只管(ひたすら)に君公の馬前に討ち死にするを本分だというような風習でござりました。
【市来四郎「薩隅日尊王論の大勢及尊王家勃興の事実附三十一節」『史談会速記録第八輯』】

 

市来が若い頃の薩摩藩は学問(当時は朱子学)を馬鹿にする連中ばかりだったので、勉強は人に隠れてこっそりとやらねばならなかったようです。

 

斉彬がそれをどうやって変えたのか。

次回からはそれをお話しします。

 

 

 

 

 

 

via 幕末島津研究室
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