東軍戦死者埋骨地の碑を撤去したときに起きた「怪異」

鳥羽伏見の古戦場巡り(5/6)を書いたとき、京都(淀)競馬場のとなりにある「戦死者慰霊碑」について、京都市歴史資料館情報提供システム『フィールドミュージアム京都』にある『京都のいしぶみデータベース』にある解説を引用しました。

 

内容はこうです。

この碑は鳥羽伏見の戦で激戦地となった宇治川堤千両松の地に立つ。

もともと戊辰役東軍戦死者埋骨地(HU032)が明治40年に建立されたが,大正14年隣接地に京都競馬場が建設され,昭和42年に大駐車場が新設された。 

同時に駐車場と競馬場を結び京阪線を跨ぐ高架自動車道が付けられた。
 
俗伝によればこの高架橋建設時に埋骨地の碑を撤去したところ,工事現場に怪異が起きたので慰霊祭が行われ,埋骨地碑は元に戻されたという。

確証はないがこの碑もその慰霊のために建立されたと思われる。 
 【フィールド・ミュージアム京都「いしぶみデータベース」より】

 

どんな「怪異」が起きたのか気になっていたのですが、別の本に書かれてあるのをみつけました。

 

石碑のある場所(赤マルで囲った部分)と高架自動車道、左奥が競馬場

 

逆方向から見たところ 手前が慰霊碑、奥が埋骨地石碑

 

新選組隊士の亡霊があらわれた

怪異の内容はこうです。

 

今競馬ファンでレース時は大盛況の淀競馬場裏の淀川堤に千両松の激戦で戦死した新選組隊士と幕臣の慰霊碑が忘れられたようにポツンと建っていた。

ところが近年の競馬ブームで拡張されるため工事が始まった。
その時この小さい碑も無視され堤と共に削られてしまった。

するとこの工事に従業の作業員の身に異変が起こった。

夜になると作業小舎に血まみれの髪をふり乱した隊士が「紫地に誠」の旗を持って現れ「もとの所に返せ」とくり返しくり返し訴える。

その為作業員は一晩中うなされっぱなしだった。

翌朝、このことを現場監督に話すと一笑に付された。

監督は自分で小舎に泊まり込んだ。
すると、やはり亡霊が現れ「もとの所に返せ」という。

青くなった監督は上司にこのことを訴えた。

驚いた工事関係者は慰霊碑の管理寺院の妙教寺に依頼し供養を盛大に行なった。

そのためか亡霊はその後現れなくなり、工事完成後、碑を据え直し墓所を整備した。
そしてレース開始前には法要しているという。

昭和四十八年一月の京都新聞にも記事になっていた。
【青木繁雄「誠の旗を持つゆうれいの話」『戊辰戦争年表帖』ユニプラン】

 

はじめにあった「小さい碑」は「戊辰役東軍戦死者埋骨地」という石碑です。

埋骨地石碑、お花が供えられていました

 

慰霊碑の碑文

 

慰霊碑の表に刻まれている言葉は、

幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない 
それが日本人同族の争でもあり 
いづれもが 正しいと信じたるまゝにそれぞれの道へと己等の誠を尽した 
然るに流れ行く一瞬の時差により 
或る者は官軍となり 或るは幕軍となって 士道に殉じたので有ります
ここに百年の歳月を関し 其の縁り有る 此の地に
不幸賊名に斃れたる 誇り有る人々に対し慰霊碑の建つるを見る 
在天の魂以て冥すべし 
                         中村勝五郎識す
 昭和四十五年春 

裏面には

慶応四年戊辰正月 伏見鳥羽の戦いに敗れ 
ここ淀堤千両松に布陣し 薩摩長州の両軍と激戦を交し 非命に斃れた 
会津桑名の藩士及び新選組並びに京都所司代見廻組の隊士の霊に捧ぐ 
昭和四十五年六月四日
日本中央競馬馬主協会連合会長  中村勝五郎 
京都馬主協会長         樋口正一 
同 常務理事          松本英吉  
京都競馬場長          秋山忠利 
日本調教師会関西本部長     上田武司 
同 専務理事          福永幸夫

 

とありますから、やはり鎮魂のために競馬場の関係者が建立したのでしょう。

 

「死骸を踏み越えて進んだ」千両松の激戦

千両松では凄絶な戦いがくりひろげられました。

旧長州藩士の林友幸は当時のことをこう語っています。

(千両松は)淀の上で、淀川の土手にある。

あすこは沼と川の間に一本の道があって、どっちへ往こうと言うても往かれぬ所だ。

あすこではなかなか能く働いた。

半死半生の奴がウンウンやって居る死骸を踏越えて往くと言うようなことで、まだ呼吸(いき)のある奴は「少し耐忍して居れ」と言うて進んだが、戻りには皆死んで居った。
【林友幸「伏見鳥羽方面」維新戦歿者五十年祭事務所『維新戦没実歴談』】

 

「死骸を踏越えて」というのは誇張ではなく事実のようで、薩摩兵士の従軍日記にも「敵味方の手負・死人を踏み越え踏み越え」と書かれています。

 

新選組に話をもどしましょう。

 

千両松は逃げ場のない一本道の土手ですから、銃を持たず白刃突撃するしかなかった新選組隊士たちは、新政府軍の銃撃によって死者が続出しました。

 

古参幹部の井上源三郎など、14名が亡くなっています。

 

「血まみれの髪をふり乱した隊士」はその中のひとりでしょうか。

 

「紫地に誠の旗」を持っていたとされていますが、新選組隊士で大正4年(1915)まで存命だった永倉新八が大正2年(1913)に小樽新聞の記者に語った『新選組顚末記』には、「旗は赤地に白く誠の一字を染め抜いたもの」と書かれています。

 

新選組の旗は現存していないので正確な色はわかりませんが、赤いはずの旗がなぜ紫に見えたのか?

 

こちらも少し気になるところです。

 

via 幕末島津研究室
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