下級武士は殿様と会話できない

島津斉彬が西郷隆盛をはじめて登用したのは、嘉永7年(1854)1月です。

 

ペリー艦隊来航という大事件が起きたため、老中の阿部正弘が国元にいた斉彬に早く江戸に戻るよう要請しました。

 

西郷はその供(随行員)に加えられて、初めて江戸の土を踏むことになります。

 

『斉彬「西郷隆盛は評判が悪いから採用!」』で書きましたが、西郷の身分は城下士の最下層だったため、屋敷内では斉彬と直接口をきくことができません。

それで、斉彬は西郷を「庭方(庭師)」として採用しました。

 

庭師であれば、殿様が庭を散策する途中で会話することができるからです。

藩士でもこのような制約がありましたから、士農工商の「士以外」に対してはもっと厳しくなります。

 

以前斉彬が微行して領民に話しかけた話(『藩内では少数で移動し、領民の生活を視察』)を紹介しましたが、あれは身分を隠してのことです。

 

では、身分が分っている上級武士が庶民に話しかけるとどう思われるでしょうか。

 

勘定奉行が農民に話しかけたら、「一奇談」として村の記録に残った

前回、斉彬が親しく交流した幕臣の筆頭としてあげられた筒井政憲の話をしました。

 

交流者リストで幕臣の2番目に書かれている川路聖謨(かわじ としあきら)にもおもしろい話があります。

 

高尾善希三重大学准教授の『驚きの江戸時代 目付は直角に曲がった』という本で紹介されているエピソードです。

 

安政4年(1857)4月21日、老中阿部正弘らの幕府高官が武蔵国多摩郡の検分に行った際のことでした。

 

勘定奉行の川路が百姓に話しかけたのですが、それがあまりにも珍しいことであったため、「一奇談」として旧蔵敷村(現在の東京都東大和市)の内野家に伝わる記録に残されているのです。

 

わかりやすくするため、現代文にしてご紹介します。

ここに一奇談あり。

御勘定奉行川路左衛門尉(さえもんのじょう:聖謨)様がご出立で馬に乗られたので、馬の脇に付き添って青梅橋の方へご案内いたしたところ、種々お話をなされた際に、「ここからサンホクまで何里あるか」とお尋ねになった。

「羽村までお行きになる沿道にサンホクという村や地名はございません」と申し上げたところ、例の扇(地名を書いた扇らしい)をお見せになり、「ここにちゃんとサンホクと書いてあるが、どうだ」とおっしゃった。

扇を拝見したところ、三ツ木村の字のサンホリの間違いだったので、そう申し上げた。

すると「なるほど、サンホリのリとクの書き損じか。書いた者の誤りだと判明したぞ」と手を打ってお笑いになった。
【原文は東大和市郷土博物館『里正日誌第七巻』】

 

川路は元々は豊後日田代官所の地役人の子供で、川路家に養子に入った人物ですから、生粋の旗本のようにお高くとまってはいなかったのでしょう。

 

川路聖謨(『幕末・明治・大正回顧八十年』より)

 

しかし、生まれついての大大名だった島津斉彬にも似たような話がありました。

 

斉彬、切子職人の耳を引っ張る

この話は歴史書には書かれていません、講演記録の中でみつけました。

 

斉彬に関するちょっとしたエピソードをご紹介します。

一昨年(2004年)、薩摩切子展が鹿児島で開催され、井上暁子先生という、ガラス専門の先生に講演をしていただきました。

そこに講演を聴きにこられていた、おばあちゃんがおられたのですが、そのおばあちゃんがたずねてこられて、実は自分のお婆さんのお父さん、すなわち自分のひいおじいさんが薩摩切子の職人だったと聞いているというお話をしにこられました。

それで、そのおばあちゃん曰く、いつも、自分のおばあちゃんから、お父さんの話として自慢話を聞かされていたそうです。

それは何かといいますと、自分は薩摩切子の職人であったが、ある時、殿様らしい人が工場にやってきて、何か質問をしたと言うのです、
それで、それに答えないといけないのですが、その時、直接お殿様に話をしてはいけないといつも言われていたので、その職人の人は側近の人に、どういうことを尋ねられたのかということで聞こうとしたら、そのお殿様らしき人が、自分の耳を引っ張って「お前は耳が聞えないのか」と言われたというものでした。

それをいつもお父さんは自慢していたということを、そのおばあさんが言っていたという話がありました。
【島津公保『薩摩ルネサンスー我が思いの軌跡ー』(私家版)】

 

工場は屋敷の外ですから斉彬は身分を気にせず直接話しかけたのでしょうが、職人の方は殿様とじかに口をきいてはいけないと言われていたので側近経由で答えようとしたら、斉彬に叱られたという話です。

 

耳を引っ張るというのはいささか乱暴ですが、引っ張られた職人は、「殿様が自分を同じ人間として扱ってくれた」と感じて本当に嬉しかったのでしょう。

だから、そのことを自慢話としてくりかえし話していたのだと思います。

 

形式張ったことをきらう、斉彬らしいエピソードです。

 

 

 

 

 

via 幕末島津研究室
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