鳥羽伏見の戦いの終点は大阪

鳥羽伏見の戦いで連戦連敗の旧幕府軍が、最後の拠点としたのが大坂城(当時の表記、現在は大「阪」城)です。

 

大坂城は徳川幕府が西国支配の拠点とした名城ですが、歴代将軍で大坂城に足を踏み入れたのは3代家光までで、14代家茂が文久3年(1863)に上洛したときに訪れるまで長い空白期間がありました。

 

その家茂は長州再征の途中、大坂城内で亡くなります。

 

そして慶応3年(1867)12月、最後の将軍となった慶喜が大政奉還を行なった後に、旗本や会津・桑名の藩兵を引き連れて、京都の二条城から大坂城に移りました。

 

年が明けた1月、鳥羽伏見の戦いに敗れた旧幕府兵たちは大坂城に戻り、ここを拠点として反撃に出ようとしていました。

 

というのも大坂城は「天下の名城」として名高く、新政府軍といえどもこの城をかんたんに落すことなどできないと考えていたからです。

 

1月3日にはじまった戦いで旧幕府軍は連敗しています。

 

大坂城に次々と敗北の報告が届く中、1月5日に慶喜は城内の大広間に会津桑名の両藩主や幕府の諸将を集めて、「たとえ千騎が一騎になっても退くべからず、汝らよろしく奮発して力を尽すべし」と大演説を行ないました。

 

当時(1月6日)の様子を幕臣の福地源一郎(桜痴、明治時代にはジャーナリストとして活躍)がこのように語っています。

 

しかれども彼の薩長の兵隊いかに猛く戦うとも、思わざる勝利を得たりとも、まさかに大坂城を囲むがごとき事はよもあるまじ。

この城にさえ籠りなば安泰なりと恃(たの)みて、籠城説もようやく軍隊諸将校の間に行なわれたるがごとし。
【福地源一郎『懐往事談』「第一七章 大坂城中の状況」】

 

司令部消失そして大坂城焼失

しかし、その6日夜に驚愕の事態が起きました。

 

総大将の慶喜が幕府上層部と会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬を伴ってこっそり大坂城を抜け出し、江戸に向ったのです。

 

指揮官たちを失った大坂城は大混乱におちいり、籠城するはずの城兵らはパニックとなって我先に逃げ出したので城は空っぽになり、さらに1月9日には火災が発生してさしもの名城もほとんど焼け落ちてしまいました。

 

兵士がいて武器があっても指揮官がいなければ戦えません、大坂城はまさにそうなってしまったのです。

 

新政府軍の征討大将軍である仁和寺宮は、1月10日に大坂に向う船の中から城内の火薬庫が爆発する様子を見たようです。

 

「大将軍船中ヨリ火薬庫破裂御覧(部分)」『戊辰戦記絵巻』

 

大坂入りした仁和寺宮の一行は西本願寺津村別院を本陣としました、ここは小高くなっているので大坂城下の様子がよくわかる場所です。

 

「大将軍宮西本願寺着御(部分)」『戊辰戦記絵巻』

 

西本願寺津村別院は「北御堂(きたみどう)」とも呼ばれ、江戸時代には朝鮮通信使の宿舎にもなった立派な建物です。

 

余談ですが、もう一つの本願寺である東本願寺の難波別院は「南御堂」と呼ばれ、この二つの御堂を結ぶ門前の道が「御堂筋」で、現在も大阪のメインストリートです。

 

当時の建物は昭和20年(1945)3月の大阪大空襲で焼失したため、現在ではコンクリート造に替わっていますが、昔をしのばせる堂々としたたたずまいです。(地下には本願寺の歴史を説明するミュージアムもあります)

 

現在の北御堂(ブログ主撮影)

 

仁和寺宮大坂城を見る

その後仁和寺宮は大坂城の焼け跡を視察しています。

画面の左側にはまだ煙が上がっており、完全に鎮火する前に視察したようです。

 

「大将軍大坂城焼址御覧」『戊辰戦記絵巻』

 

現在の大阪城天守閣は昭和6年(1931)に復興されたもので、中にはエレベーターがあり、各階には歴史資料が展示されています。

 

大阪城天守閣(ブログ主撮影)

 

大阪城は不吉の城?

最後に大阪城に関する奇妙な話をご紹介します。

 

これは松平春嶽が明治になってから書いた『逸事史補』の中にある話です。

 

ここにまた一奇説あり、長州征伐の節、家茂公は大坂城に在り、余(春嶽)もまた折々大坂へ下り登城の際、城坊主なるもの数人あり、これは誰々も知りたるごとく、諸侯の世話をする者なり。

城坊主の一人、余に内々いわく、
「今般の長州征伐は、天下の危難は申すまでもなく、徳川御家のためには甚だもってしかるべからず。

そのわけは、私懇意の者に家相を見る人あって、(その人が言うには)この長州征伐の末は恐れながら御上(おかみ:将軍家茂)に御危難あり。

また、大坂城は不吉の城ゆえ、御上に御危難あるのみならず、この次どなたかは知らねどもお次の御上(慶喜)には、お命はつつがなくとも非常の御災厄あり。

これは早くて二・三年、七・八年までには必ずこの患(わずら)いあるべきは鏡にかけたるが如し」という。

余「そんなこともあるまじ」と申すなり。

されども、今もって考えれば偶中(まぐれあたり)にもあらず、適中せり。

家相もずいぶんあたるものなり。
【松平慶永「慶喜公大坂を去り江戸に帰る」『逸事史補』人物往来社幕末維新史料叢書4】

 

幕府が長州再征を発令したのは慶応元年(1865)でした。

 

長州征伐のため大坂城に入っていた将軍家茂が21歳の若さで急死したのが慶応2年、次の将軍慶喜が大政奉還を行なったのは慶応3年、鳥羽伏見の戦いは慶応4年(1868)でした。

 

まさに「早くて二・三年」で「この患い」が実現したのです。

 

徳川家にとって「大坂城は不吉の城」だったからでしょうか?

 

 

via 幕末島津研究室
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