前回の続き。4日目(1月6日)の戦いです。

橋本関門

大坂城を出て京都に向った旧幕府軍は、1日目に小枝橋・伏見市街で破れ、ついで高瀬川堤、千両松、富之森と相次いで敗北します。

 

稲葉老中の居城である淀城からも入城を拒まれたため、さらに撤退して橋本の関門で新政府軍を迎え撃つことになりました。

 

橋本は桂川・宇治川・木津川の3つの川が合流して淀川となったあたりに位置し、北を天王山(秀吉と光秀が戦った山崎合戦の地)、南を男山(石清水八幡宮)に挟まれた狭隘部です。

 

京都盆地から大阪平野に抜けるためにはここを通過しなければなりませんが、まさにここがボトルネックになるので、守るには絶好の地形となっています。

 

 

幕府は男山の東に橋本関門、その対岸に山崎関門をかまえて京都への通行を監視していました。

 

橋本関門は、京街道を往来する人々の関所と、淀川をつかって京都と行き来する船を取り締まる船舶改所で構成されています。

 

その隣には勝海舟が設計責任者となって慶応元年(1865)に楠葉(くずは)台場が設けられ、航行する船を砲撃できるように、3基の砲台や高い土塁が備わっていました。

 

また対岸の山崎街道にも関所があり、こちらにも高浜砲台を設けていました。

 

山崎の守備を担当していたのは外様大名である津藩藤堂家でしたが、鳥羽伏見の戦い勃発時には中立というスタンスだったようです。

 

当時の様子を旧津藩士の小野保が史談会でこう語っていました。

 

山崎へは藤堂采女が総帥となり(中略)その兵隊おおよそ一大隊半もありまして、三日の午(ひる)過ぎて、夜に入って山崎に達しました。

然るに夕方から伏見・淀両所で戦争を始め、砲声は盛んになり、火の手は上がる、遂に東西の大戦争となった。

此の時藩兵の意見というものは、今回のことは徳川氏が兵を以て君側の悪を除くとか云うけれども、結局薩長と会桑の私闘である。

此の隊に於て外藩たる所の藤堂が彼是いずれへ対しても応援すべき道理はない。
只々自分の警衛場所を守るのみである。

その警衛場所に向って攻め来れば何れに対しても応戦するは勿論であるというが、その時の藩論でござりました。
【「維新の際津藩山崎関門警衛並長幕開戦の事実附十七節」史談会速記録第116輯】

 

しかし目の前で戦争が始まっているのに、中立を保ち続けることは困難です。

 

1月6日の主戦場は橋本関門ですが、元あった陣地をさらに増強した楠葉台場からの砲撃は激しく、これに向った新政府軍(薩摩兵)は苦戦を強いられます。

 

津藩は旧幕府と長州の両方から味方するように迫られていましたが、「何れに御加担をするということは出来ぬ、只朝命を守って警衛を命ぜられた所を守るより外ない」と回答していました。

 

1月5日、勅使四條隆平が山崎の藤堂陣営を訪れ、総帥の藤堂采女に「官軍を支援せよ」との勅書を下しました。

 

「勅使四條津藩ニ令シ賊ヲ討ツ」『戊辰戦記絵巻』

 

外様とはいえ徳川家に恩義を感じている藤堂家は心情的には幕府側であり、藩士たちも内心は同じでした。

 

しかし勅命に逆らえば賊軍になります、藤堂采女は苦渋の決断をしました。

 

藤堂の裏切り

ここまで連戦連勝の薩摩兵でしたが、楠葉砲台の頑強な抵抗によって橋本関門を攻めあぐねます。

 

新政府軍の兵士が書いた手記には、その時の様子がこう書かれています。

 

橋本の台場は至りて堅固公大にして容易に攻め抜きがたし。
実に難事の所なり。

もとよりそう備え付けの大砲、かつ野戦砲数十挺出して、賊徒の兵勢盛んなり。

薩長の軍勢、これがために疵を蒙る者多し。
【「某氏戦書」 野口武彦『鳥羽伏見の戦い 幕府の運命を決した四日間』中公新書】

 

しかし、その状態は一変しました。

 

山崎関門の藤堂軍がとつぜん砲門を転じて、楠葉砲台を砲撃してきたのです。

側面を突かれた旧幕府軍は大混乱に陥ります。

 

男山の山続きの峰に陣取っていた桑名藩の大砲があわてて応射し、その周辺に展開していた旧幕府側の諸藩も山崎に向けて砲撃を始めました。

 

「勅使四條津藩ノ戦状ヲ見ル」『戊辰戦記絵巻』

同上部分(手前の津藩が奥右の幕府兵を砲撃、奥左は薩摩兵))

 

敵を前にして旧幕府軍の同士討ちのような状況に陥ります。

それまで頑張っていた旧幕府軍は、津藩の裏切りで一挙に崩れてしまいました。

 

橋本関門を突破されたらもう食い止めるポイントはありません、あとは大坂まで一直線です。

 

よく知られているとおり、この夜徳川慶喜は、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬らを伴って大坂城を脱出します。

 

大将が失踪した軍勢は大混乱となり、大坂城を放棄してしまったため、鳥羽伏見の戦いは終りを告げました。

 

兵力で3倍の差があり、最新鋭の武器を持った歩兵隊を有しながら、旧幕府軍はあっけなく負けてしまいました。

 

旧陸軍士官学校卒で陸上自衛隊幹部学校教官も務めた軍事史家の金子常規氏は、旧幕府軍の敗因をこう語っています。

 

幕側としては、三日のその日のうちに戦勢を支配することが何よりも大事だった。

京都の内外では、多数の公卿をはじめ大方の藩が薩・幕のいずれが勝つかと固唾をのんで見守っていたし、朝議もきわめて流動的で、どちらが有利かは彼らの最大関心事だったのである。

それにもかかわらず鳥羽で、幕軍は薩軍陣地をただ正面攻撃し撃退されただけだった。

しかも夕方から戦を始めたためにわずか一時間ほどで暗くなり、幕軍は夜の攻撃続行を行なわず兵を退けて翌朝の攻撃再興を決心した。

これが朝廷には幕軍敗退と伝わり、朝廷公卿の向背をきめてしまい、幕軍は賊軍に転落したのである。

こう観察すると、幕軍敗北の因の一つは、幕軍指導者の視野の狭小なこと、さらにまた、戦を甘く見た上級指揮官の軍略の失敗に帰せざるを得ない。

戦はまず勝たねばならない。

彼らはすでに日本古来の兵法が無効になっていることを悟らなかった。

「武器さえ西洋の新式をとり入れれば戦術は日本兵法でもよい」として、シャノワン(フランス軍人、幕府の軍事顧問として陸軍を指導)の指摘したように教導を受けなかった彼らは、その驕慢の報いを主家存亡の場で受けたのである。
【金子常規『図解詳説 幕末・戊辰戦争』中公文庫】

 

楠葉台場のあったところは、現在史跡公園として整備されています。

 

 

奥に見えるのは京阪電車の線路、その向こうが淀川、川向こうが山崎。

 

山崎は直線距離では近いのですが、そこに行くためには京阪電車で橋本駅から祇園四条駅まで行き、阪急の京都河原町駅まで歩いて阪急電車に乗り換え、水無瀬駅で降ります。

 

高浜砲台のあったあたりは今こんな感じ。

 

 

本来の砲台跡はもっと淀川に近いところだったようです。

 

堤防に上がると対岸がよく見えました、矢印のあたりが楠葉台場になります。

 

昔はこのような堤防もなかったでしょうから、大砲で狙えますね。

 

 

via 幕末島津研究室
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