前回の鳥羽(小枝橋)・伏見市街地の戦闘に続いて、2日目となる1月4日の戦いです。

 

高瀬川堤戦争

主戦場は川の堤防上にある狭い道でした。

 

激戦地付近の堤防上にある自転車・歩行者専用道、奥に人影が見えます、右は桂川。

 

早朝、霧が立ちこめる中、両軍が激突しました。

画面の右が新政府軍、左が旧幕府兵と桑名藩兵です。

 

「高瀬川堤戦争」(『戊辰戦記絵巻』より)

画面をよく見ると、中央の奥には霧にまぎれて桑名藩の伏兵が潜んでいます。

 

「高瀬川堤戦争(中央部)」(『戊辰戦記絵巻』より)

左側の旧幕府軍を見ると、刀や槍で突進するうしろには歩兵隊が縦5列となって銃撃しています。

 

「高瀬川堤戦争(左部分)」(『戊辰戦記絵巻』より)

注目したいのは、銃隊の前で刀や槍を持って突進している人たちです。

アップで見ると、こう。

 

「高瀬川堤戦争(左部分拡大)」(『戊辰戦記絵巻』より)

 

槍の人物はうつむいたり目を細めたりしているし、刀を下げている二人は陣笠を脱いで顔の前にかかげています。

 

突撃にしては少し様子が変です、いったいなぜ?

 

当時の様子を、この戦いに兵糧方として参加していた旧幕臣の坂本柳佐が史談会でこのように語っていました。

 

そのとき実地にお臨みのお人はご存知でござりましたろうが、じつにひどい北風が起こりまして、四日の夕からして五日の朝と申しまするものは、はなはだしき暴風のため、徳川の兵士は十分の働きは叶いません。

(中略)
第一に京師の方を向きましては目を明いて居られません風です――北風が盛んでありました。

(中略)
四日はそれがしまいになると戦が止んで、五日の朝は例の北風で眼へ砂がはいって眼を明いて居る者がただの一人もない、それが五日六日と十日まで吹きました。
【坂本柳佐「坂本君伏見戦役に従事せられたる事実(一次)附四十九節『史談会速記録第23輯』】

 

旧幕府軍は北に向って進んでいますから、砂まじりの北風が正面から吹き付けていたのですね。

 

講演後の質疑応答において、旧佐土原藩士の富田通信が「ちょうど北条時宗の神風が吹いたようなもんですな―」と感想を述べたのに対し、坂本も「かの風のために、今日開明の日本国を見るようになったでしょう」と答えています。

 

鳥羽伏見の戦いの間じゅう吹き荒れていた北風は、まさに新政府軍にとっては神風だったといえましょう。

 

鳥羽伏見の戦い最大の大砲戦

この日の戦いでは、旧幕府軍は近くにあった菊亭家の米倉から米俵を持出し、それを積み上げて胸壁を作り、そこに会津藩が大砲を配備して待ち受けました。

 

その激しい砲撃に新政府軍は進むことができず、薩摩の大砲隊に救援を求めます。

駆けつけた薩摩大砲隊とのあいだで、鳥羽伏見の戦い最大の砲撃戦が展開されました。

 

戊辰戦記絵巻「高瀬川堤薩州兵大砲戦」

激烈な戦いで薩摩兵も死傷者が増えましたが、会津兵も倒れていきます。

 

「高瀬川堤薩州兵大砲戦」(部分)

 

午前7時ころからはじまった戦闘は午前10時すぎまで続き、会津兵はついに撤退しました。

 

鳥羽街道を南に歩いてみた

鳥羽街道を南に(新政府軍のように鳥羽から淀に向って)進んでいると、法伝寺があります。

 

 

ここは1月3日の戦いの時に、負傷した旧幕府軍兵士の野戦病院のようになっていました。

 

 

門の横には戊辰東軍戦死之碑と彫られた石碑も立っています。(鳥羽伏見の戦>戊辰東軍戦死碑 で検索)

 

 

そこから少し南に行くと、また石碑を見つけました。(鳥羽伏見の戦>鳥羽伏見の戦跡 で検索)

 

 

近づいてみると。

 

 

1月4日の激戦はどうやらこのあたりでくりひろげられていたようです。

 

さらに南下すると、また別の石碑が目に入りました。(鳥羽伏見の戦>戊辰役東軍戦死者埋骨地(愛宕茶屋) で検索)

 

 

「戊辰役東軍戦死者埋骨地」とありますので、ここも東軍の戦死者を埋めた場所です。

 

 

鳥羽街道周辺にはこのような埋骨地の碑が12基もあるということで、東軍(旧幕府軍)の戦死者がいかに多かったかがよくわかります。

(5/6)につづく。

 

 

via 幕末島津研究室
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