前回の続きです、まずは端緒となった鳥羽の戦いから。

 

小枝橋のやりとり

鳥羽伏見の戦いの始まりは鳥羽街道にある小枝橋の南でした。

 

鳥羽街道は鴨川にそって北上し、小枝橋で鴨川を渡って京の九条にある東寺に向います。

 

慶応4年1月3日、京の守備を固めるため鳥羽街道を南進していた新政府軍(薩摩藩兵)は、小枝橋の付近で北上してくる旧幕府軍の先発隊と遭遇しました。

 

「我々は慶喜公が朝廷のお召しで上京する先供(さきとも)である」と言う旧幕府軍に対し、薩摩藩の監軍(将校)椎原小弥太(しいはら こやた)は、「上京の可否を朝廷に問い合わせるから、返事が来るまでしばし待たれよ」と返して、通行させません。

 

「鳥羽関門応接」(『戊辰戦記絵巻』より)

「鳥羽関門応接」部分(瀧川播磨守と椎原小弥太の交渉)

 

そして椎原が時間を稼いでいる間に、新政府軍は攻撃準備を着々と進めていきました。

 

「鳥羽関門応接」部分(薩摩の伏兵)

 

街道脇の竹やぶに薩摩兵が散開して潜んでいる様子が描かれています。

また手前にある民家の屋根越しに橋らしいものが見えますが、これが当時の小枝橋でしょう。

 

現在の小枝橋はもっと北に移されており、規模も大きくなっています。

 

現在の小枝橋(ブログ主撮影)

小枝橋の手前道路脇にある戦跡碑(鳥羽伏見の戦>鳥羽伏見戦跡(小枝橋)で検索)

(上の写真の向って右側になります:ブログ主撮影)

 

戦闘開始

昼前にはじめた交渉が夕方5時ごろになり、しびれを切らした旧幕府軍が強行突破しようとしたとき、椎原が「手切れだ!」とさけんで街道横の畑に飛込むと同時に、合図のラッパが鳴り響いて、薩摩の銃砲がいっせいに火を噴きました。

 

前と横からの銃撃をうけて、先頭の歩兵たちはバタバタと倒れていきます。

 

さらに狙い澄ました砲弾の一発は旧幕府軍の大砲に命中し、反撃もできない旧幕府軍は大混乱におちいりました。

 

驚くべきことに、旧幕府軍はこのとき小銃に弾を込めていなかったのです。

 

推測するに、大軍で押しかければ新政府軍はおびえて戦闘にならないと考え、銃の暴発を用心して弾を込めていなかったのでしょう。

(でなければ、先に発砲することで相手に開戦の口実をあたえることのないようにという配慮かも知れません)

 

川崎三郎が指摘した

①兵気の萎靡(いび)振るわざる(兵士に戦う気がない)

② 多兵自ら恃(たの)む(兵の数が多いので過信している)

の状態であったかと思われます。

 

「鳥羽関門戦争」(『戊辰戦記絵巻』より)

「鳥羽関門戦争」部分

(逃げる瀧川播磨守、砲弾が命中した大砲、加勢に向う甲冑姿の見廻組)

 

「鳥羽関門戦争」部分

(薩摩兵の銃火と応戦する旧幕府歩兵)

 

不意をつかれてうろたえる歩兵たちを、見廻組の佐々木只三郎が「逃げたら切るぞ」と叱咤して、何とか戦線を維持したところに、後続の桑名藩砲兵隊の援護射撃が加わって、ようやく新政府軍の攻勢を食い止めることができましたが、旧幕府軍の被害は甚大です。

 

鳥羽伏見の戦い初戦は、旧幕府軍の惨敗となりました。

 

さきほどの小枝橋石碑の近くにある鳥羽離宮公園には、「鳥羽伏見戦跡碑」が建立されています。

 

ここはかつて12世紀に白河帝によって建てられ代々の上皇がお住まいになられた離宮があった場所で、碑が立っている小高い丘は昔の築山だそうです。

 

また、その近くには「鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋」の碑がありますが、碑文にある「薩摩藩がアームストロング砲を発射」というのは間違いで、鳥羽伏見の戦いで薩摩藩が使ったのは通常の先込砲でした。

 

 

鳥羽伏見戦跡碑(鳥羽伏見の戦>鳥羽伏見戦跡碑(鳥羽離宮公園)で検索)

(ブログ主撮影)

 

 

鳥羽伏見の戦勃発の地碑(鳥羽伏見の戦>鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋で検索)

(ブログ主撮影:奥に見えるのは戦跡碑)

 

勃発の地の碑文(アームストロング砲の部分に隠そうとした跡がある)

(ブログ主撮影)

 

<参考>野口武彦『鳥羽伏見の戦い 幕府の命運を決した四日間』中公新書

 

(3/6)につづく。

 

via 幕末島津研究室
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