5月下旬に京都をおとずれ、戊辰戦争のはじまりである鳥羽伏見の戦いの古戦場跡を歩いてきました。

 

戦跡を紹介するまえに、まずは鳥羽伏見の戦いについて振り返ってみましょう。 

 

もうひとつの「天下分け目の戦い」 

 

天下分け目の戦いといえば、徳川家康が天下統一を確実なものにした「関ヶ原の戦い」がすぐに思い浮かびます。 

 

支配者の交替という意味では「鳥羽伏見の戦い」もまさにそうでした。 

 

神戸大学名誉教授で文芸評論家の野口武彦さんがこのように書いています。

 

徳川家康は慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の合戦で石田三成を破り、徳川家の覇権を打ち立てた。
同8年には幕府を開き、以後265年間の治世を保つ。

鳥羽伏見の戦いは覇権を失う結果にはなったが、疑いもなく《第二の天下分け目》といえる記念碑的な戦闘であった。 
【野口武彦『鳥羽伏見の戦い 幕府の命運を決した四日間』 中公新書】 

 

鳥羽伏見の戦いの開戦時兵力は、旧幕府軍1万5000人に対し、新政府軍はその3分の1の5000人でした。 

 

これだけの差がありながら、なぜ旧幕府軍はあのような惨敗を喫してしまったのか? 

旧水戸藩出身でジャーナリストの川崎三郎(紫山)は、明治27年(1897)に出版した『戊辰戦記』のなかで鳥羽伏見の戦いにおける旧幕府軍の敗因として、以下の4点をあげています。

(読みやすくするため、現代の仮名づかいと漢字に改めています。原文はこちらの83頁)

 

① 兵気の萎靡(いび)振るわざる(兵士に戦う気がない)
② 多兵自ら恃(たの)む(兵の数が多いので過信している)
③ 兵器の運用に慣熟せざる(兵器の使い方になれていない) 
④ 地形の不利 
【川崎三郎『戊辰戦記 巻三』 博文館】 

 

戦いの原因 

そもそもなぜこの戦いが起こったのか、たとえば日本史の教科書にはこう書かれています。 

 

大政奉還 
長州再征の失敗後、徳川(一橋:原注、以下同じ)慶喜が15代将軍となったが、幕府の力はすっかりおとろえた。

土佐藩の坂本竜馬・後藤象二郎らは、欧米列強と対抗するためには、天皇のもとに徳川氏・諸大名・藩士らが力をあわせて国内を改革する必要を強く感じた(公議政体論)。

彼らのはたらきかけで、前土佐藩主山内豊信(容堂)は、将軍慶喜に政権を朝廷に返上するよう進言した。

慶喜もこれをうけいれ、1867(慶応3)年10月14日、朝廷に大政奉還を申しでた。

しかし同じころ、薩長両藩の武力討幕派は、岩倉具視ら急進派の公家と手をむすんで討幕の密勅をえた。

そして彼らの主導によって、同年12月9日、いわゆる王政復古の大号令が発せられ、若い明治天皇のもとに公家・雄藩大名・藩士などからなる新政府が発足し、二百数十年つづいた江戸幕府は滅亡した。

このとき幕府や摂政・関白などは廃止され、それにかわって総裁・議定・参予の三職がおかれたが、下級武士出身の実力者たちは、公家や雄藩の大名たちとならんで新政府に加わった。 

新政府は成立当日の夜の小御所会議で激論のすえ、徳川慶喜を新政府に加えないこと、慶喜に内大臣の官職と領地の返上(辞官納地)を命じることをきめた。

しかし旧幕府側はこの措置に強い不満をいだいた。 

戊辰戦争 
1868(明治元)年1月、薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と、旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍とのあいだに、京都の近くで武力衝突がおこった(鳥羽・伏見の戦い)。 
【五味文彦・鳥海靖=編『新もういちど読む山川日本史』山川出版社】 

 

教科書ではわかりにくいのですが、王政復古後の小御所会議では慶喜の扱いをどうするかで大激論になりました。

 

当時二条城にいた慶喜は、辞官納地処分という会議の結果を知って激昂する旗本や会津・桑名藩士(ともに幕府政権下で京都の治安維持を担当)が暴発することを防ぐため、彼らを連れて大坂城に移ります。 

 

このときは新政府といっても名目だけで実力も資金もない状態でした、それらは依然として旧幕府側にあったのです。

 

当初新政府は慶喜を無役にし、将軍家の領地700万石のうち400万石を行政のための費用として新政府に引き渡すことを求めようとしましたが、次第に弱気になって、納地は200万石に修正し、慶喜も追放ではなく京都に呼んで新政府の議定に任ずることで妥協しようとしました。

 

つまり慶喜は、大坂城にじっとしているだけで、新政府のリーダーになれそうな状況に変わってきたのです。

 

これは西郷隆盛や大久保利通のような武力討幕派にとっては、望ましくない方向です。 

 

「近世史略 薩州屋敷焼撃之図」(東京都立中央図書館所蔵)

 

しかし、江戸で薩摩藩邸を焼き討ちしたという情報が大坂城に伝わると、不満を抱えて爆発寸前だった旗本や会桑両藩の藩士たちは「江戸につづけ」と一気に主戦論に傾き、もはや慶喜の制止に従うような状況ではなくなってしまいました。

 

いよいよ戦いの幕が開きます。

 

戦闘は4日間 

鳥羽伏見の戦いは4日間にわたっています。 

 

当時の様子を伝えるものとして明治24年に保勲会から頒布された『戊辰戦記絵巻』によると、次のような戦いがくりひろげられました。

 

1月3日:鳥羽関門戦争、伏見戦争 

1月4日:高瀬川堤戦争 

1月5日:富之森激戦、淀千両松戦争 

1月6日:橋本・八幡戦争 

 

 開戦前夜

  1月2日、慶喜入京のお供をするとして会津藩兵が伏見に到着しました。

「会津藩伏見上陸」(『戊辰戦記絵巻』より)

大阪城を出た会津藩士200名あまりが船で伏見に来て、上陸した場所は京橋の船着き場でした。

 

現在では公園になっていて、観光用の三十石船の乗船場として利用されています。伏見の戦いでは激戦地となったので、写真に見える橋のたもとにはそれをしめす石碑※1があります。(※1 鳥羽伏見の戦>伏見口激戦地跡(京橋)で検索)

 

現在の船着き場(ブログ主撮影)

 

到着した会津藩士は宿舎である伏見御堂(東本願寺別院)に入りました。

 

それを知った薩摩藩有馬藤太・長州藩林半七・土佐藩谷兎毛ら6名が会津の入京を阻止しようと押しかけ、夜明けまで交渉しましたが、双方譲らず平行線のままでした。

 

「会津藩上京差止」(『戊辰戦記絵巻』より)

 

伏見御堂は京阪電鉄伏見桃山駅の西約200mのところにありますが、絵巻物の面影は残っていません。

 

伏見御堂(門前に「会津藩駐屯地跡」の石柱 鳥羽伏見の戦>会津藩駐屯地(伏見御堂)で検索、向って左の建物は伏見幼児園、ブログ主撮影)

 

(2/6)につづく。

 

via 幕末島津研究室
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