佐賀藩はうごかずに様子をうかがっていた

前回まで薩摩藩主島津斉彬と佐賀藩主鍋島直正(閑叟)の交流について書いてきました。 

 

斉彬の急死がなかったら、薩長同盟よりも強力な薩肥連合が構築されていたことでしょう。 

 

しかし、斉彬が亡くなったことで直正もやる気をなくしてしまいます。

 

「明治維新の中核となったのは薩長土肥」とはよくいわれますが、肥前つまり佐賀藩が朝廷側にくわわったのは戊辰戦争の途中からです。 

 

国中が朝廷派と幕府派に分かれて混乱していたとき、雄藩のひとつである佐賀藩は中央政局からはなれて、いわば引きこもりのような状態でした。 

 

そのころのことを、土佐を脱藩して三条実美に仕え明治政府では宮内大臣などを務めた土方久元(ひじかた ひさもと)が明治38年の史談会でこう語っています。

 

その時分の訝(いぶか)しいことは肥前(鍋島:原注)の挙動です。

薩摩や筑前は勤王論、久留米や肥後は佐幕論で、勤王か佐幕かどちらかに分れて居ったが、肥前と云(い)う者は佐幕でも無い、勤王でも無い。肥前から来て居る者に面会しても些(ち)っとも分らぬ。

それぢゃからどう云う者で肥前の奴はあんな馬鹿な奴だからと思って居た。

それから御維新になって江藤(新平)に聞いたら、それは閑叟(鍋島直正)が成丈(なるだ)け馬鹿な者をやれ、どちらかに関(かかわ)ると中々やかましい、成丈け分らぬ奴をやれと云うことであったと申したので分った。

今は勤王家の様に言うが肥前の者で脱走した者も牢に入れられた者も無い。

閑叟公と云う人は乱世の英雄で、天下乱麻の如くなったら隣国を切り取りしようと云う考で、金を貯え人を養成した。

だから御一新後になってズッと人物が出て来た。 
【土方久元「土方伯維新前後の事歴附二十六節」『史談会速記録第156輯』】 
 

土方久元

(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

「閑叟はこすい人」

 

 直正(閑叟)については、徳川慶喜が明治42年の昔夢会でおなじような見解を語っています。 

 

(小林庄次郎)肥前の閑叟も観望家のようで……。 

(徳川慶喜)俗に言ったらこすい人、善く言えば利口才子という人だ。 

(小林)その時分の肥前の態度は、薩長とも違いますし、どういうような態度でございましたか。

(慶喜)やはり今言うところの態度だ。下手なところへ顔を出さぬというふうの人だ。 

(小林)形勢を観望する……。 

(慶喜)まあそうだ、なかなか利口な人だ。
 
(江間政発)御一新の際は少し立ち後れましたな。 

(小林)肥前は割拠の世の中になると思ったか、その用意ばかりしておったようで……。 
【渋沢栄一編 大久保利謙校訂『昔夢会筆記』平凡社東洋文庫】 

 

 雄藩として力をもちながら国に引きこもって動かず、何をかんがえているかわからない直正のことを、人は「肥前の妖怪」とよびました。

 

 久米邦武編述・大隈重信監修の『鍋島直正公伝』によれば、直正が信頼していた大名は島津斉彬と井伊直弼だけでした。 

 

その二人が相次いで世を去り、孤独になった直正は国事関与から藩内安定に方針変更し、中央政治から手をひいて、勤王と佐幕で分かれている佐賀藩内を平穏にすることに専念したのです。 

 

当時は日本各地で勤王の志士が台頭して旧来の体制をゆさぶっていました。

 

そのような中、佐賀藩においては藩士たちが衝突するような事件が発生することはありませんでした。

 

久米邦武はこう書いています。(分かりやすくするため現代文に改めています。原文はこちらの5頁から)

 

時に藩の中でも開国・鎖国の両論と勤王論の三者が対立して紛糾していたことから、自藩の統一がなくては国家の大事に役に立てないと考えた(直正)公は、非常に賢明な対応をとられた。

我々の先輩で藩法や藩の意図にそむく行動をしたものがあると、藩の役人は法を適用してこれを厳罰に処そうとしたが、公は「このようなことは青年の常だ、彼らはいやしくも天下のために行動した。悪意でしたことではない者を厳罰に処すことは不可である。
もし強引に弾圧すればかならず藩の中が党派に分れて種々の反動が生じる」として、まさに乱れようとする時局を統帥して人びとの心を固く統一した。

これは尋常の度量でできるものではない。 
【大隈重信監修 久米邦武編述 中野礼四郎校補『鍋島直正公伝第五編』】 

 

このような直正の配慮があったから、佐賀は力をたくわえたままで戊辰戦争に突入し、官軍に多大な貢献をして新政府内での地位をたしかなものにしました。 

 

ところで、文久元年(1861)11月に隠居して閑叟と名を改めた直正ですが、そのころから持病の痔疾に苦しんでいたようです。 

 

「肥前の妖怪」の実態は、親友二人をうしなって気力がうせたところに持病の悪化がかさなったため引きこもっていたら、陰謀をたくらんでいるように見られてしまったというのは考えすぎでしょうか。 

 

via 幕末島津研究室
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