人付き合いは正反対 

斉彬はとびきり人づきあいがよかったようです。

 

馬廻役として斉彬に仕えた本田孫右衛門は、斉彬のことを、「お大名には珍しいほどの交際家でありました」とかたっています。【本田孫右衛門「島津斉彬公逸事問答数條」『史談会速記録第169』】

 

 江戸で生まれ育ち、藩主よりも自由に動ける世子時代が長かった斉彬は、さまざまな人たちと交際していました。

 

長州藩毛利家で藩主敬親(たかちか)の側近だった竹中兼和(たけなか かねかず)は世子時代の斉彬のことを、「そのころの大名たちにとって兄貴のような存在だった」とかたっていますが、【島津家事蹟訪問録(続)「故竹中兼和君ノ談話」『史談会速記録第175輯』】じっさい斉彬は若い頃からその人格や識見によって皆に一目置かれていましたから、各大名は斉彬とのつきあいを望みました。

 

くわえて、斉彬の交友関係は大名たちだけではありません。

 

幕府では老中首座の阿部正弘をはじめとして、岩瀬忠震(いわせ ただなり:外国奉行)や川路聖謨(かわじ としあきら:勘定奉行)をはじめ優秀な幕吏のほとんどと交流がありました。

 

現代の行政組織にたとえれば総理大臣以下各省の次官クラスまでほぼおさえていたようなものです。

 

また、主要な洋学者や漢学者についても同様でした。

 

さらには、公家の筆頭である近衛家と島津家が姻戚関係にあることから、朝廷にも太いパイプを持っていました。

 

直正の人脈は限定的 

これに対して、直正の人脈はかなり限られていました。

 

というのも、彼は自分が優秀だとみとめた人物としか交際しなかったからです。 

 

鍋島直正公伝を読むと、直正が親しくつきあっていた大名は斉彬と井伊直弼だけだったようです。

 

たびたび引用している大隈重信の回想には、「井伊が大老の身を以て数々佐賀邸に来遊し、斉彬も亦(また)同席したることもあり」と書かれています。【「少壮時代の経歴及佐賀藩の事情」 円城寺清『大隈伯昔日譚』】

 

井伊は鍋島の親戚ですから、直弼が佐賀藩邸を訪れていたのは事実でしょう。

 

しかし彼が大老になったのは安政5年(1858)4月で、当時斉彬は薩摩におりその年の7月に急逝していますから、大老になってからというのは大隈の記憶ちがいだとしても、3人が会っていたのは十分ありそうです。

 

大隈はさきほどの話のあとで、「井伊と斉彬と藩邸に来たりて、如何なる協議を為し、又如何なる談論を試みしや、固(もとよ)り秘密を旨としたる事なるべければ、今は之(こ)れを審(つまび)らかにするに由なけれども(以下略)」といっていますから、密談の内容はしらなかったようです。

 

佐賀藩邸『安藤広重「山下御門之内」(部分)』
(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

まぼろしの天草軍港計画

 三人が集って何を相談していたのか?明治37年の史談会で、旧彦根藩出身の歴史学者中村勝麻呂が井伊家の資料を引用しながら、このような話をしていました。

 

「閑叟には天草島に軍艦繋留処を造る考で、一方には島津斉彬に結託せられ、一方には井伊直弼と提繋(ていけい)せられて、何か計画があった」 

「それで斯様に幕府の評議でも、先づ略々(ほぼ)出来るようになって居りまして、此が万延元年(1860)の二月でありますが、間もなく三月三日になりまして、桜田の変がありました為に、此事が挫折しまして、遂に行なわれなかったのであります。
それで其前に島津斉彬も亡くなられましたし、井伊掃部頭も終に亡くなったので、もう共に語るに足る者も無いと云うて、大変に閑叟には落胆せられて、其年から隠居せられたということであります」
【「鍋島閑叟公天草島軍艦繋留処建設の計画附六節」中村勝麻呂『史談会速記録第140輯』】 

 

 佐賀藩は長崎の警備を担当していたので長崎港周辺の砲台を強化していましたが、それだけでは不十分なので軍艦を建造して、長崎の近くに配置しておきたいと考えたところ、天領の天草は軍艦をかくせる入り江が多く、また島民の多くが漁師だから操船もすぐ覚えるだろうということで、佐賀藩に下げ渡しをねがったようです。

 

しかし、この計画は井伊大老の横死で立ち消えになりました。  

 

親友の死で気力をなくした直正

 直正が隠居したのは桜田門外の変の翌年、文久元年(1861)です。

 

親友二人を失った直正は気力をなくして、国政から身を引きました。

 

大隈は当時の直正の様子を、こうかたっています。

 

閑叟は之れを聞いて痛く失望せり、落胆せり。蓋(けだ)し、此失望落胆は単に二人の交誼上よりして刺激せられたる感情に止まらず、其国家の為めに将来計議を共にするものなきを知りしより来りしものならん。

実に斉彬の死は閑叟の運命を奪いたるものと謂(いう)べきなり。
【「少壮時代の経歴及佐賀藩の事情」 円城寺清『大隈伯昔日譚』】 

こののち、直正は病気がちになったこともあって、国政から遠ざかっていきました。

 

大隈の表現を借りると、「全く昔日の形貌を失い、強健にして肥満なりし躯体も今は其形を存するのみ。いわゆる顔色憔悴(しょうすい)、形容枯槁(ここう:やせおとろえること)殆ど白骨に肉したるに等しき容(かたち)となれり」だったそうですから、急激にやせ細ったようです。

 

直正が隠居したのち、中央政治において佐賀藩の影は薄くなってしまいます。

 

戊辰戦争では官軍に加わり底力をしめして「薩長土肥」の一角となるのですが、直正の気力が充実したままだったら、維新の歴史は変わっていたかもしれません。  

 

via 幕末島津研究室
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