ものごとの決め方は正反対 

前回、「斉彬と直正は考え方もよく似ており」という話をしましたが、教育制度で説明したように全く逆のこともありました。 

 

そのひとつが、ものごとの決め方です。 

 

斉彬は相談して決める 

何かを決まるにあたって、斉彬は多くの人の意見を聞いて判断していました。

 

斉彬と親しかった宇和島藩主の伊達宗城(だて むねなり)は、明治21年に伊達邸を訪問した島津家事蹟調査員の寺師宗徳(てらし むねのり)に斉彬のことをこのように語っています。

 

決して独断専恣(どくだんせんし:勝手気ままに決めること)の挙動なく、用意慎密なり。

少しく重事(おもきこと)となれば必ず予等始めへ御相談あり、決して一己の専決に任せられざることなりき。 
【島津家事蹟訪問録(続)「故伊達従一位(宗城)ノ談話」史談会速記録第176輯】 

 

 斉彬のこのような姿勢について、島津家の博物館である尚古集成館の芳即正(かんばし のりまさ)元館長はこのように書いています。

 

(藩主就任後の初入部で斉彬は)まず嘉永4年5月16日国元で最初の親書をだして、遠慮なく意見を申し出よと述べ、さらに役人・諸士・農工商それぞれの勉励を訴えた。

あとに述べるようにこの年土佐の漂流民中浜万次郎が琉球に上陸するが、それを幕府にとどけるについて、斉彬がその要点五か条を家老新納久仰(にいろ ひさのり)に申し送った書状のなかに、全て国家(藩:原注)のためだからお前たちが念を入れて相談し、この書状に不明な点や不承知のことがあれば何遍でもたずねよ。

何分「上下一和、得心の上」ということが大事で、腹蔵なく評議せよと書いている。

独善的に藩主の権威で威圧する態度はみえず、藩士の意見を汲み上げようとする施政態度がよく示されている。 
【芳即正『島津斉彬』吉川弘文館人物叢書】

 

斉彬のやり方は伊達宗城の話や家老への書状で分るように、ものごとを決める前に色々な人と相談した上で自分でよく考えて決定し、決めた後もそれについての質問や意見を拒みませんでした。 

 

公家の東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)は自身の回顧録のなかで「薩摩では、斉彬がかく国論を決するに就いても一藩の有志は皆其の議に参与して共に力を尽した」と語っています。【東久世通禧『竹亭回顧録 維新前後』】

 

このようにしていたので、藩士たちは斉彬の考えをよく理解することができたのです。

 

その結果、薩摩藩は斉彬の死後も「順聖院様御深志(斉彬公のご遺志)」で一体となって活動することができ、維新のリーダーとなりました。

 

直正は独断 

これに対し直正は部下の意見を求めることなく独断でものごとを決めていたようです。

 

旧佐賀藩士の大隈重信がこのように語っていました。 

 

閑叟(直正)は何事も自己の考を以て之(これ)を独断して吩咐(ふんぷ:申しつける)したるを以て、其(その)全体の真意を審(つまびら)かにしたるものは殆どあるなし。

蓋(けだ)し、余多(あまた)の藩士中に、学問に於ても、才略に於ても、弁論に於ても、一人も彼に匹敵するものなく、因(よっ)て彼は自然に何事も独断するの習慣をなし、藩中は唯(ただ)命に之れ従うの状態となり、機械的傀儡(かいらい:あやつり人形)的に運動をなしたるに過ぎず。
【「少壮時代の経歴及佐賀藩の実情」 円城寺清『大隈伯昔日譚』】 

 

大隈の説明では、佐賀藩内には直正をしのぐレベルの藩士がいなかったので、直正は誰にも相談せず独断で物事を決め、藩士たちは機械的に指示にしたがっていたようです。

 

たしかに、さきにのべたように直正は親戚にあたる彦根藩主の井伊直弼に「私が感服しているのは斉彬公だけだ」と語っていますから、自分よりできのわるい者の意見など聞く耳をもたなかったのでしょう。

 

若き日の大隈重信
(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

 

人を育てる意識のちがい 

しかし、藩主をしのぐ人物がいなかったのは薩摩藩も同じです。

 

にもかかわらず、斉彬はものごとをなすにあたって藩士たちの意見を求めていますし、指示を出すときはその理由をていねいに説明しています。 

 

そうなると部下は自分たちも当事者であるとの意識がめばえ、知恵をしぼったり行動をかえたりして成長していきます。

 

いっぽう直正のやり方だと藩士たちは指示待ち人間になり、考える意欲をうしなってしまうので、人材は育ちません。 

 

大隈重信も先ほどの談話の中で、

「独断は短所ではあるが、なにごとも家老に放任して、浮世ばなれしている凡常大名に比べればむしろほめるべきだ。

 

しかし、人間はそもそも万能ではないのだから、どんなに英明であっても一人の能力で天下の大事に対処することはできない。

 

しかし閑叟はそれを行なおうとして、自分も非常に苦しみ、一方では部下が才能を伸ばす機会を失わせた」

と語っています。(原文はこちら、51頁最終行から)

 

佐賀藩にも優秀な人材はいたのですが、大隈の話では、提言しようとしても受けつけてもらえなかったようです。

 

 

 

via 幕末島津研究室
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