江戸時代は「鎖国」ではなく「海禁」だった

島津斉彬と鍋島直正は学問の奨励以外でも共通点がたくさんありました。 

そのひとつが外国貿易へのスタンスです。

 

江戸時代イコール鎖国の時代というイメージがありますが、外国交際がまったくなかったのではありません。

 

 日本史の授業で習ったように、江戸時代においては長崎の出島でオランダおよび中国(清)との交易があり、そこから外国の情報が伝わってきました。

 

鎖国といっても外国との付き合いを一切断っていたのではなく、日本人が海外に行き来することを禁じていたのです。 

 

このため、最近では「鎖国」ではなく「海禁」という言い方が用いられるようになっています。

 

じつは江戸時代には海外との窓口が4つありました。

① 長崎:オランダ、中国 

② 対馬:朝鮮 

③ 薩摩:琉球(その先は中国) 

④ 松前:蝦夷(アイヌ、その先はロシア) 

 

このうち、②対馬と③琉球は国交をともなう「通信」、①長崎と④松前は交易のみの「通商」、という関係になります。

 

 斉彬と直正は外国貿易のメリットを知っていた

 琉球は薩摩の支配下にありながら中国の属国としてふるまい、中国との貿易(朝貢貿易)をおこなっていました。

 

つまり琉球貿易といいながらその実態は、薩摩が中国と貿易しているようなものです。

 

いっぽう佐賀は福岡の黒田藩と1年交替で長崎の警備を担当してたので、幕府が独占している長崎貿易を間近でみて、そのメリットを熟知していました。

 

 旧佐賀藩士の大隈重信はこのように語っています。

(分りやすくするため現代文にしています、原文はこちらの35頁最終行以下) 

 

薩摩はこの(イギリスやフランスの船が日本より先に琉球に来て通商を迫る)ような関係からして、他藩より先に外人に関する事情を知るようになった。

ことに藩主斉彬は封建時代末の名君で、飛び抜けた人物とはいわないが、時勢の変化を未然に察する眼識は確かに持っている人物である。

彼が当時閑叟(直正)に送った手紙によって察するに、彼は攘夷はとうていできないものと信じていたようだし、その経験から貿易は自他ともに利益をもたらすものと認めていたようだ。 

ただし、いま急いでなすべきこととして、外人が日本に侮蔑の念をおこさぬように厳重な国防策を実施する必要があると考えていたようだ。 

閑叟の考えもまったく斉彬と同じだった。 

というのも閑叟は従来長崎の地を管理していたので、斉彬同様外人の事情を知ることができた。

 かつ貿易は相互の合意をもって自由に成立するもので、その結果は確かに自他の利益となるものであることを知っていた。
【「少壮時代の経歴及佐賀藩の事情」 円城寺清『大隈伯昔日譚』】 

 

『華夷通商考』より福州船および南京船の図

 

外国貿易で国防費を捻出することを提案

幕末は西欧列強がアジア諸国をつぎつぎと植民地にしていました。

 

そのような状況下、斉彬のめざしたのは日本を西欧列強の植民地にしないということです。

 

当時は日本中が攘夷という考えに染まっていました。

 

しかし斉彬は、列強と日本の武力差を知っていたので、単に攘夷をとなえるだけでは国を守れないことをよく理解していました。

 

日本を守るには防衛力を高めるしかありません、それには資金が必要になります

斉彬は外国貿易の利益によって、国防費を捻出することを幕府に提案しています。

 

嘉永6年(1853)に幕府の海防参与に任命された水戸斉昭にだした手紙の中で斉彬は、諸大名に海防のための軍備を整えさせる資金として、

 

① まずは幕府が大阪にため込んでいる余裕金のうち200万両くらいを提供する。

② その後永続的に費用をまかなうため、参勤交代を3年に一度として、削減できた経費を充当する。

③ 諸大名に軍船1艘ずつで中国・インドに貿易に行かせる。

④ ③が難しければ幕府が一手に通商して、その利潤を諸大名に分配する。

 

という提案をしています。

【「三三三 斉彬公水戸前中納言殿ヘ送ル書牘」『鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻』原文はこちらの662頁】

 

③については市来四郎が「直航貿易は(斉彬)公の御主論、佐賀侯(直正)と御同論なりしと云ふ」と注釈を加えています。

 

貿易について、ふたりの意見が一致していたことがここからもわかりますね。

 

 

 

 

 

 

via 幕末島津研究室
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