ともに人材育成に力を注ぐが方法は正反対 

斉彬と直正は、藩の工業化をすすめるとともに人材育成に力を注いだということで共通しています。 

 

その結果、薩摩では松方正義や五代友厚、佐賀では大隈重信や副島種臣など、たくさんの優秀な人物が生まれました。

 

しかし、人材育成という目的はおなじでも、その方法はまさに正反対でした。

 

藩士たちを勉強させるために、斉彬はアメをあたえ、直正はムチをふるったのです。

 

斉彬の教育改革 

嘉永4年(1851)の2月に藩主となった斉彬は、3月に江戸を立ち、5月に薩摩に到着。ただちに政務方針をしめし、言路洞開(げんろどうかい:意見募集)をおこなって現状把握につとめるとともに、民政・勧業・教育・工業化などさまざまな政策に着手しました。

 

このうち教育について斉彬が行ったのは、意欲と能力があるものはだれでも学習できるという環境づくりと、学問に秀でたものを登用することで、“学問によって出世できる”ようにしたことです。

 

まずは貧窮武士に学習機会を与えるために奨学金制度をつくりました。

 

嘉永4年12月に学制稽古扶持米給与令をだし、翌年1月より造士館学生の困窮者15人に年4石の扶持米(いまなら大卒初任給程度でしょうか)支給を開始しています。

 

さらに留学制度もつくって長崎や江戸・上方などで学べるようにし、そこで学ぶ課目も従来の儒学一辺倒から国学や洋学にまで範囲を拡大して、社会に役立つ人材の育成に努めました。

 

また、薩摩独自の教育である郷中教育においても、外部には秘密にされていた各郷中の掟書を提出させた上で自ら筆を入れて、実用的な教育となるように改めています。 

加えて学ぶためのツールも整備しました。

 

というのも鹿児島ではそれまで小さな本屋が1軒あるだけで、ほとんどの書物は江戸や京大阪からとりよせるしかなかったため、費用も時間もよけいにかかるという状況だったからです。

 

斉彬は城内に図書館を作り、藩営の書店を開設して貧しい者には安価で書籍を貸し出し、さらには藩で出版事業も行って必要なテキストの普及に努めています。 

 

 直正の教育改革 

これに対して、佐賀藩が行ったことは勉強ができない者にペナルティーを科すという厳しいものでした。 

 

佐賀藩士だった大隈重信は、明治の半ばに当時の様子を振り返ってこのように語っています。(原文はこちら) 

 

余の郷里である佐賀藩には弘道館という一大藩校があって、その生徒を内生・外生の二校舎に分ち、今の小中学校のように一定の課程を設けて厳重にこれを督責した。 

藩士の子弟が六七歳になれば皆外生として小学校に入らせ、十六七歳にいたれば中学に進んで内生となり、二十五六歳に至って卒業させる程度である。 

もしその適齢になってもなおまだ学業を成就することができない者は、その罰として家禄の十分の八を召し上げ、かつ藩の役人となることを許さない法があった。(これを課業法といい、嘉永三年に施行した:原注) 

(中略) 
藩校に入って制科に及第できないと家禄を減らされるのみならず、仕事につくこともできないとするのは、明や清の登科及第法(科挙)よりも厳しくて苛酷なものだ。 
【「少壮時代の経歴及佐賀藩の事情」 円城寺清『大隈伯昔日譚』】 
 

大隈重信
(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

佐賀藩の藩校「弘道館」は上級武士から下級武士まですべての藩士の子弟が学ぶところで、今の小学生くらいの年齢で入学すると、まず通学生(外生)となります。

 

そして高校生ほどの年齢に達すれば、そこからは寄宿舎に入って学ぶ(内生)というシステムです。

 

直正は人材育成のために、儒学者古賀穀堂の意見を入れて弘道館の規模を3倍にひろげ、予算は7倍に増やしました。 

 

そのうえで行ったのが大隈が語っている「課業法」です。

 

これは正しくは「文武課業法」といって、優秀な成績をおさめた者は身分にかかわらず抜擢する一方で、上級武士であっても成績が悪くて25歳にたっしても課業を終えることができない者は、その家に与えられた家禄(つまり父親の給料)を減らし、本人は就職もさせないという制度でした。 

 

江戸時代において、家禄というのは「先祖代々決まっているもの」ですが、直正は勉強できなければその家禄を最大8割減らし、さらに役職手当ももらえなくする、いわば“学習恐怖政治”をおこなったのです。 

 

 従兄弟どうしで仲のよかった二人ですが、藩士たちに勉強をさせるやり方は正反対でした。  

 

via 幕末島津研究室
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