近代化のリーダーは従兄弟

幕末、世間が攘夷を叫んで西洋を排斥しているとき、そのような動きに背を向け、西洋の進んだ技術をとりいれて近代工業国家をめざした藩といえば、佐賀と薩摩が双璧でしょう。 

 

それをリードしたのが鍋島直正(閑叟)と島津斉彬です。 

 

意外と知られていないのですが、この二人は従兄弟になります。

 

どちらも正室(本妻)の子で、母親は鳥取池田家6代藩主の池田治道(いけだ はるみち)の娘。

 

鍋島家に嫁いだのは次女の幸姫、島津家に嫁いだのが四女の弥姫(いよひめ)です。

 

斉彬は長男で文句なしの世子(世継ぎ)、直正は三男でしたが兄たちが早世したためこちらも世子として育てられました。

 

正室の子で世子ですから、両人とも江戸生れの江戸育ちです。

 

生まれたのは、斉彬が文化6年(1809)、直正が文化11年(1814)で斉彬が5才年上。

 

直正は天保元年(1830)に17才で藩主となりましたが、斉彬はずっと遅れて嘉永4年(1851)43才にしてようやく藩主に就任しました。

 

鍋島直正
(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

斉彬と直正(閑叟)について、松平春嶽はこのように語っています。

 

とかく大名の名高きは、主人よりも家来に英雄道徳才智あるもの多ければ、自然にその主人の名も名高くなるものなり。

島津斉彬・閑叟の如きは家来よりも主人の方がすこぶる賢才道徳あるをもって、よき家来も出来たり。決して家来に使役せらるる殿様にはあらざるなり。 
【「鍋島閑叟公のこと」 松平慶永『逸事史補』】 

 

春嶽自身も優秀ではあったのですが、彼には橋本左内という超優秀な家来がいました。 

 

斉彬や直正にはそのようなレベルの家来はいなかったが、優秀な藩主の教育によってよい家来たちができたというのが春嶽の見解です。

 

斉彬の快活な人柄で佐賀藩士の敵愾心もなくなる

両人は生まれたときから江戸にいて、しかも従兄弟なので面識はあったはずですが、親しく交流したのは天保年間、直正の藩主就任後のようです。

 

『鍋島直正公伝』には当時の様子がこのように書かれています。

(読みやすくするため現代文に改めています。原文はこちら。)

 

直正公が江戸にいるときは深く斉彬侯と交際し、斉彬侯もまた直正公を無二の親友としてお互いしきりに行き来し、なにごとも相談して意気投合していた。

のちのちまでも直正公が諸藩主中でもっとも敬重されたのが斉彬侯だった。 

佐賀と薩摩は旧敵の国だったので、江戸においても互いに親しくまじわることを嫌う因襲的な感情があったため、はじめは藩邸内で交際するのを躊躇していた。

しかし斉彬侯は快闊なご性質で、そのようなことにはまったく拘泥しなかったため、直正公との付き合いは次第に深くなるとともに、(斉正の)叔母の婿である宇和島の伊達春山老侯(伊達宗城の養父)もこれに参加して、大いに天下の経綸を論じて気焔を吐いた。

老公(直正の父、斉直)の逝去後、己亥(天保10年、1839)の参府より、いっそうこの往来は親密になり、斉彬侯は突然我が藩邸に来られて「松平修理太夫様お入り」との声が門番より伝わることがひんぱんになった。

そして来邸されると夜更けまで話し込まれ、のちには奥に入られて近侍の男女とも杯酒を酌みまじえ、あるいは家族の媒酌をするなど、その交情は親しい兄弟よりもむつまじかったので、邸内の感情も融和してしまった。 
【侯爵鍋島家編纂所『鍋島直正公伝 第三編』】

 

「佐賀と薩摩は旧敵の国」というのは、戦国時代に佐賀を支配していた龍造寺隆信が、沖田畷の戦いで島津家久に討ち取られたという歴史があるからです。 

 

鍋島ももとは龍造寺の家臣です、このようないきさつがあったので佐賀の武士は薩摩を敵視していました。 

 

しかし斉彬の快闊なふるまいや直正との親密な交流を見た佐賀藩士たちは、過去のわだかまりを捨て、「邸内の感情も融和してしまった」のです。 

 

ついでにいうと、「家族の媒酌」というのは、直正の娘貢姫(当時5才)と鳥取藩の10代藩主池田慶行(当時11才)の婚約のことです。 

 

この話は斉彬が進めて、天保15年(1844)に幕府の許可もおりましたが、嘉永元年(1848)に慶行が17才で急逝したために流縁となりました。  

 

直正は斉彬を絶賛

直正が斉彬を高く評価していたことがうかがえるエピソードがあります。

 

これは旧彦根藩士の石黒務が『旧幕府』という雑誌に寄稿したもので、直正が親戚(父親同士が従兄弟)の井伊直弼を彦根藩邸に訪ねたときの話です。

 

直弼が直正に外様大名の人物評をたずねるのを、給仕として末席にいた直弼の小姓武笠源次郎が聞いていて、後になってそれを石黒に伝えたそうです。

 

そう難しくないので原文のままご紹介します。

安政の初め鍋島斉正卿(直正)江戸桜田の井伊邸に来訪あり(鍋島家と井伊家は親戚にして、又卿と直弼は親善なり:原注)。

酒間共に胸襟を開きて談話時を移す。談偶々(たまたま)諸侯の事に及ぶ。

直弼問うて曰わく、卿は諸侯に交(まじわ)り多し、其人物に就て賢愚得失の差あらん、請う之を示せと。

其人名を扮(あわせ)て問うもの数回。

誰は如何と、卿曰わく彼は不肖也、又誰は如何と、彼は不可也と。

概ね其問う所の人を非難し、卿の眼中殆ど称誉すべき人なきが如し。

此際遂に斉彬公の事に及ぶ、卿形ちを改めて曰わく、是は非凡の英傑也、其識高く量大に尋常の諸侯を以て比す可(べ)きものに非ず。

余の常に深く感服して争う可からざるものは独り此公のみ。

足下も此公に交る可し、蓋(けだ)し益すること少なからざる可し。

公の英邁なる言行を語りて、深く感称せられたりと。
【石黒務「島津斉彬公之事」 戸川安宅編『旧幕府』第4巻第3号】

 

江戸城では各大名の殿席(控え室)が決まっており、大名同士の交流は同じ殿席か親戚に限られていました。

 

井伊家の殿席は譜代の有力大名や老中経験者がはいる「溜(たまり)の間」、鍋島家は外様の大大名があつまる「大広間」です。

 

直弼は交流のない大広間詰めの大名たちがどのような人物なのかを直正に尋ねたのでしょう。

 

直正は各大名を「あいつはできが悪い、そいつはダメだ」などと酷評していたのに、斉彬の評価をきかれると、とたんにいずまいをただして、

「非凡の英傑で比べられる人はいない、私が感服しているのは彼だけだ、あなたも斉彬公と交際しなさい、きっとためになるから」

と絶賛したということです 。

 

石黒はまた、井伊直弼が侍臣に語ったとして

「三百年間の太平で人心が易きに流れ、大名に人物の少ないことは嘆かわしい。

なかでも譜代大名はひどいものだ。

しかし薩摩守(島津斉彬)、肥前守(鍋島直正)、肥後守(会津松平容敬:京都守護職松平容保の養父)は傑出した名君である」

という言葉を紹介しています。

 

名君は名君を知るということでしょうか。

 

 

 

 

via 幕末島津研究室
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