旧新発田藩出身の陸軍軍人旗野如水が大正13年の史談会でかたった話をつづけます。(前回はこちら

 

前回は長州人が細かいことにこだわるという話でしたが、今回は薩摩人です。

 

薩摩は部下にまかせる

 
今度は薩摩の方に移りますが、薩摩の人々は部下にことごとく責任を負わして任せておくという風がある、だから部下がいつでも信服しておる。
 
西郷従道さんはただ大蔵大臣をやられないだけで、他の十大臣はみなやられた人であるが、それは「今日大臣になって来たが次官以下よろしく頼む、君たちに印判を預けておくからよろしくやってくれ」こういうわけであるから、次官以下はあくまで間違いがあってはならぬというので責任を負って仕事をしたと言うことを聞いております。

【「大正十三年十一月九日の例会に於ける旗野如水氏の大村益次郎氏遭難時代の記憶及大村夫人の貞節の談話」『史談会速記録第356輯』】

 

西郷従道はさまざまな大臣を歴任したが、つねに次官以下のスタッフに仕事を任せきっていた。

 

任された部下たちは失敗して大臣に恥をかかせるようなことをしてはいけないというので、強い責任感を持って仕事に打ち込んだという話です。

 

もし部下にミスがあれば、従道大臣は部下の責任にせず、任せた自分が一切の責任を負うというつもりで腹をくくっています。

 

大臣からすべてを委ねられた部下たちは信頼を裏切らぬよう一生懸命努力したでしょうし、それによって成長していったにちがいありません。

 

 

西郷従道
(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

引き続き旗野の談話です。

そこで私が明治二十一年に宮崎連隊区司令官心得で赴任したときに、宮崎県知事の岩山敬義(いわやま たかよし)という人は、勅任一等の知事でありました、この人とは家が向かい合いであるから家族の往来がはげしい。

 あるときに岩山君の話にいわく、前に岩山君は農商務の局長であったが、そのとき西郷従道侯は大臣であった。

 

宮崎県知事の岩山敬義というのは薩摩藩出身の官僚で、米国に留学して農業を学び、帰国後は勧農畜産につとめて下総にわが国初の牧羊場をつくるなど、農業・牧畜業の発展に貢献した人物です。

 

岩山の姉糸子は西郷隆盛に嫁いでいますから彼は隆盛の義弟にあたり、隆盛実弟の西郷従道とは親しい関係でした。

豚のみならず

旗野の話をつづけましょう。

 各府県知事の集会に際して何か訓示的のことをしなければならぬ、そこで文章を岩山君が書いて、そうして西郷君に出すと、西郷侯はねんごろに熟読しておった。

 ところで、いよいよその席に臨んで音吐朗々と読まれたところが、ちょっとつかえた、これはしまった何か分らぬことがあるかと思っていると、また声を振り立てて「豚のみならずことごとく」と読まれた。

 妙なことを言うと思っていたが、式が済んで後に岩山君が、
「西郷どん、君は豚のみならずとやったようだな」
「そうだ。お前が俺に言う時に、獣の名前のように聞いたが、忘れてしまったから豚と言った」
「じつはあれは、しかのみならずと言うところだ」
「なに、鹿の足も、豚の足も四本だ、獣にかわりはなかろう」
と言って大笑をせられたという、この位の大度量である。 

つまり長州あたりは小心翼々で、まことに細かしいところまで行き届いておる。

 薩摩あたりは知っておっても大度量に構えて、なるだけ部下の人にやらしたように思われる。 

 

訓示を読みあげるときにつかえた部分ですが、「加之」と書いて「しかのみならず」と読むところです、これは知っていないとわかりません。

 

それを「豚のみならず」と読んでおいて、まちがいを指摘されても笑ってすませてしまうのが薩摩人の大度量だと旗野は言っています。

 

話はかわりますが、西郷従道はもともとの名前は「従道」ではなく、「隆興(たかおき)」でした。

 

維新後に新政府から本名(諱)を訊ねられたとき、音読みで「リュウコウ」と答えたのが、鹿児島弁の発音だったため、東京の役人には「ジュウドウ」と聞えて「従道」と書かれ、本人もあえて訂正しなかったので、以後は従道という名前になってしまったそうです。

 

じっさい、明治26年(1893)に来日して鹿児島にも何年間か住んでいた米国人宣教師は、鹿児島弁について「rの発音はjに近い」と述べています。

【H.B.シュワルツ著 島津久大 長岡祥三訳『薩摩国滞在記 宣教師の見た明治の日本』】

 

細かいことにこだわらないとはいっても自分の名前まで‥‥‥、さすが大度量!というべきでしょうか。

 

 

via 幕末島津研究室
Your own website,
Ameba Ownd