斉彬は『海国図誌』を読んでロシアの国情を知った

今の北海道は江戸時代には「蝦夷地(えぞち)」と呼ばれて、日本の領土ながら住民が少ないため、南下政策をとるロシアに狙われていました。 

 

これを心配していたのが斉彬で、彼はこのように語っています。 

(わかりやすくするため現代文になおしています、原文はこちらの746頁)

 

 蝦夷は日本東北の咽喉で、魯西亜(ロシア)にとっては関門となるから、先年より度々乱暴な行為におよんでいる。

 魯西亜は「ペートル」の遺命によって世界征服の大志があるそうだ。 

海国図誌に記すところでは、兵力盛んにして国人は勇敢、且つ土地は富んで豊かであり、風俗も質朴なようだ。 (下線はブログ主)

世界を征服する計画においては、必ず先に蝦夷に手をのばして、ついで支那を侵略するにちがいない。 

蝦夷に入られると日本の一大事だが、これをふせぐのに兵力を用いるのは下策である。 

蝦夷を開墾して日本人をふやし、日本の所領であることをはっきりさせれば、いかに強い魯西亜といえどもみだりに介入することはできない、これを上策とする。 
【「四三一 斉彬蝦夷地開墾目論見島津登・関勇助等ヘ取調御内命」『鹿児島県史料 斉彬公史料第三巻』】

 

斉彬はロシアについて「海国図誌に記すところ」と述べており、『海国図誌』という書物から情報をえていたことがわかります。 

 

では『海国図誌』とはいかなるものか、それを調べていると興味ぶかい事実がみえてきました。

 

日本と中国の違いです。

 

 西洋諸国を知るためのバイブル『海国図誌』 

 『海国図誌』は西洋各国の書物や新聞をもとにして、それぞれの国の地理や歴史、政治状況から兵器・軍艦までを網羅したもので、著者は中国清朝の思想家魏源(ぎげん)です。

 

 魏源は友人で政治家の林則徐がアヘン戦争で失脚するときに、林が収集した海外の資料を託され、十数年かけて大著『海国図志』を完成(最初は1842年に50巻本、5年後の1847年に60巻に増補、さらに5年後の1852年には100巻本に拡充)させました。【呂万和『明治維新と中国』六興出版 東アジアの中の日本歴史6】

 

『海国図志』は当時の中国において最も進んだ西欧諸国に関する知識の宝庫でした。

 

魏源は同書の序文で、「これは何のための書か。夷(西欧)を以て夷を攻めるためにつくり、夷を以て夷をけん制するためにつくり、夷の技能を以て夷を制するためにつくり‥‥」と書いています。 

 

それまでの中華思想をあらため、西洋に学ぶという考え方を示した、画期的な書物だったといえましょう。

 

 中国では軽視され、普及せず 

 

しかし、中国はこの書物を受け入れませんでした。

 

中国の経済ジャーナリスト馬国川氏はこのように述べています。

 

 『海国図誌』の誕生は、時代の趨勢によるものと言えよう。

当時の清王朝はアヘン戦争で惨敗し、新しい思想観念が必要とされていたが、政府は依然として「天朝上国(てんちょうじょうこく)」の夢から目覚めようとはしなかった。

『海国図誌』は重視されるどころか、外国や少数民族に関する内容の収録が中国固有の学問の道に反するとして、主流社会から攻撃や排斥を受けた。

士大夫は、西洋の「奇技淫巧(きぎいんこう)」や「政治制度」を賞賛する本著は大逆無道であり、断固封殺すべき、また焼却すべきとの声まであった。 
【馬国川著 大脇小百合訳『明治維新の教え 中国はなぜ近代日本に学ぶのか』CITIC Press】

 

この結果、『海国図誌』は中国国内ではわずか1000冊ほどが刊行されただけで姿を消してしまいした。

 

 文久2年に幕府使節の随行員となって上海に渡航した高杉晋作が、『海国図誌』を探し求めたものの、すでに絶版となっていて手に入らなかったというエピソードがあります。

 

 日本では知識人がきそって買い求めた 

 

しかし日本においては、『海国図誌』の扱いは大違いでした。

 

嘉永4年(1851)に長崎に来た中国船により持ち込まれたこの書は、3年後の嘉永7年(1854)にまず抄本(部分訳)が出版され、その後3年のうちに、漢文に訓点をつけて読みやすくしたものが6点、和訳が17点で計23点もの『海国図誌』が出版され、当時の知識人が先をあらそって買い求めたとのことです。 

 

日本で出版された『海国図誌』
(国立公文書館所蔵)

 

東洋一の大国であった清がアヘン戦争で英国にやぶれたことで、島津斉彬をはじめとする日本の知識人はたいへんな危機感をもちました。 

 

そこに登場したこの書物は、まさに世界情勢を知るための最高の情報源でした。 

佐久間象山も『海国図誌』を高く評価した一人です。

 

とはいうものの、彼はこの本のうちで、海防、とくに大砲については「疎漏無稽にして、児童の戯嬉のごとし(いいかげんで、子供のいたずら書きのレベルだ)」として、「吾、魏のために深くこれを惜しむ」と書いています。 

 

重要視するものであってもすべてをう呑みにするのではなく内容を取捨選択しているのは、当時の日本知識人の姿を示していて興味深いものがあります。 

 

 なぜ日本は中国より先に近代化できたのか?

 

同じように西欧列強の圧力にさらされながら、中国は近代化に失敗し、日本は明治維新という革命をおこしていち早く近代工業国家の仲間入りをなし遂げました。 

 

なぜそのような差がついたのか。

 

『海国図誌』という書物に対する日本と中国のとりあつかい方をみると、その理由が分るように思えます。

 

中国の支配階級である士大夫層は自分たちが正しいのだと信じていたため、西洋の文化を取りいれることをこばみました。

 

では、日本はどうだったのか?

 

島津斉彬と西郷隆盛のやりとりを見るとそれがわかります。

 

あるとき、西郷が斉彬に、「御前には“オランダ好き”の癖があると水戸では評判になっています」と語りかけたところ、斉彬がこのように 返答したという話が残っています。

(わかりやすくするため現代文になおしています、原文はこちらの140頁)

「外国は日本の武備が衰えたのを見透かして迫りきたので、今日のようになった。

古人の言に彼を知るを以て用兵の要、交際の本とするとある。

だから彼の長ずるところを取りいれ、我の短所や欠けているところを補うのが政事の要点で、これが予の目的だ。

支那も日本より謂えば異国だ。英国・仏国・米国も同じく異国だ。昔から支那の礼学文物を採って政務を補い、今日のように開けたのではないか」
 
「支那・天竺・オランダ其外欧羅巴諸国何れからでも、その優れていることや良いものは悉く取り用いて我が国の短欠を補い、日本をして世界に冠たるの国となし、国威を輝かすことが大切なのだ」 
 【「一二六 西郷隆盛洋癖云々御諫言ニ対シ御弁解ノ譚」『鹿児島県史料 斉彬公史料第三巻』】 

 

自国のメンツにこだわらず、世界中から優れているものを取りいれるという斉彬の姿勢。 

 

この考えが明治政府の指導者にひきつがれたから、日本が世界に例を見ないほどの速さで近代工業国家となったのでしょう。

 

 

via 幕末島津研究室
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