三現主義
企業経営では「三現主義」、つまり「現場にいって」「現物をみて」「現実をしる」ことが大切だといわれます。
オフィスでパソコンの画面をみながら考えたことと、現場でじっさいに起こっていることが違うのはよくある話です。
机上の論理では問題は解決しません。だからすぐれた経営者は現場に足をはこんで、そこにいる人たちに話を聞くのです。
斉彬のやりかたもまさにそうでした。
斉彬の事蹟をかいた『照國公感旧録』には、「(斉彬)公、国政の暇あるごとに昼夜を問わず近臣数名を率い、馬上あるいは徒歩村里を馳駆して民間の情況を観察せり」とあります。
同書に斉彬が農民と会話したときのようすが書かれていましたのでご紹介します。
(わかりやすくするため現代文になおしています)
斉彬公がある日磯別邸(仙巌園)の背後にある吉野原を散策したときのこと。
連れていた二、三名の近臣はほかに散らばって、侍医一人だけがそばにいた。
農民二、三名が土地を開墾していたので、公が近づいて「荒れ地を拓いて何の種をまくのか」とたずねたら、一人が「ソバを植えるつもりです。これまではお役人の手伝い作業が多くて畑をおこす余裕がありませんでしたが、殿様のおはからいで少し余裕がでたから、来年はソバと唐芋(からいも=さつまいも)を植えて十分食べ長生きするつもりです」と、公の徳政への感謝が顔に表れていた。
農民は目の前にいる人が斉彬公だと知らないし、公も客人のようにていねいに接しながら次のように質問した。
「畑の中にハゼの木が二本ある。うねの真ん中にあるから耕作のじゃまになるが、どうして伐らないのか?」 すると農民はみぶるいして、「木を伐れば殿様にしかられます」と言ったが、その恐れたようすで、藩の役人からいかに苛酷な扱いを受けているかを察して、つらく落ち込んでしまった。
しばらくののちに、笑いかけながら、「もはや叱る人はいない。明朝庄屋役所に届けて、農作の害になる木は何本でも伐ればいい」と言った。
農民は喜びのあまり飛び跳ねながら、「おまはん誰なるや(あなたはだれですか?)」と問うた。
公は「余は郡方の下役なり」と答えた。
薩摩藩は先代藩主斉興のときに、家老の調所笑左衛門が苦労して、500万両という大借金を抱えていた財政を立て直しました。(当時の藩の収入は年間18万両で、借金の利息も払えない状態でした)
そのため、農民たちにサトウキビなどさまざまな商品作物の栽培を行わせて、年貢をしぼり取りました。
ハゼの木はウルシ科の落葉樹で、その実からとったロウはロウソクの原料です。ハゼの木も重要な商品作物でしたから厳重に管理されていました。
それで農民は、畑作りのじゃまになっていても「木を伐れば殿様にしかられます」と言ったのです。
伐採のゆるしをもらってうれしさのあまり飛び跳ねたというのは、よほど日頃から困っていたのでしょう。
『照國公感旧録』さし絵
親しみやすさ
もうひとつ注目するのは、農民が斉彬に質問したことです。
江戸時代は身分制社会でしたから、武士であっても身分が低ければ藩主と直接話すことはできません。
ましてや農民や町人にいたってはもってのほかです。
斉彬は領内の視察をしたときにたびたび農民たちに話しかけていたようですが、質素なみなりでていねいに話しかけるので誰も殿様だとは気づかず、あとで教えられて恐縮したということです。
(「二五 少将御叙任及布告」 『鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻』 原文はこちらの36頁)
時代劇では殿様はキンキラキンの衣装を着てえらそうにしています。
しかし斉彬は日常木綿の着物しか身につけず、煙草をすうのに使用するキセルもほかの大名のように銀製ではなく庶民と同じ黄銅(しんちゅう)製だったそうです。
現代におきかえれば、大企業の社長がアオキのスーツを着て100円ライターを使っているようなものですから、農民たちが気づかなかったのもよく分ります。
リーダーの資質としては親しみやすさも重要なポイントですが、斉彬はこの点でもすぐれていました。