武士六人
(京都大学付属図書館所蔵)

西欧列強は日本を植民地にしようとしていた

19世紀なかば、東アジア諸国はつぎつぎと西欧列強の植民地にされていました。植民地化をまぬがれたのは日本とタイだけです。

日本が植民地にならなかったのは、アジアのはしっこで交通の要衝にならなかったという立地の良さと、列強がほしがるような天然資源や生産物がなかったからだという人もいますが、それは大きなまちがいです。

たとえば長崎海軍伝習所の教官として来日したオランダ人海軍士官のカッティンディーケは、その著書の中でこのようにかたっています。

日本はまさに天国のごとき国であり、幕府が外国人の入国を禁じているのも確かに道理がある。もしエルギン卿が、日本内地を見るならば、彼はその政府に『日本を領有せずには済まされない』と報告するに違いなかろう。我が有力なる隣国(イギリス)がここもと手一杯であるこそ仕合せであるが、おそらく日本にもそのうち悲しみの順番が回り来るだろう。
【ファン・カッティンディーケ著 水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』】

エルギン卿というのは安政5年(1858)に日英修好通商条約締結のために来日した、イギリスの特派使節第8代エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースのことです。

当時のイギリスは前年におきたアロー号事件によってはじまった清国との戦争がつづいていたので、カッティンディーケもイギリスがすぐには日本に手を出すことはないが、清のつぎは日本の番だと思ったのでしょう。

斉彬はオールジャパンでなければ対処できないと主張

このような状況を一番心配していたのが島津斉彬でした。

斉彬は、列強と対抗するためにはオールジャパン体勢を構築しなければならないとして、このように語っています。

今の世となりては、日本一体一致の兵備にあらざれば、外国に対当すること叶うまじく、公儀も諸大名も是れまで一国一郡位の心得にては、日本国の守備は調うまじ。
【「巻之五 水戸侯越前侯ノ御話(中原尚介ヨリ承ル)」『島津斉彬言行録』】

幕府と諸藩がこれまでのように、国(薩摩、肥後など)やそれをさらに細分化した郡といったバラバラの状態でいては、日本全体の守りはおぼつかないと考えていました。

当時の侍にオールジャパンの考えはなかった

しかし当時の日本は各藩が独立国家であったため、それを統一したオールジャパンという概念はありませんでした。

さきほどのカッテンンディーケは、こうも語っています。

日本国内は大小幾多の藩が、互いに独立しているというほどでなくとも、皆嫉視し合って、分かれているような状態であるから、単一の利益を代表するなどということは、思いも寄らぬことである。
【ファン・カッティンディーケ著 水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』】

具体的な例をあげてみましょう、安政6年(1859)に来日したアメリカ人英語教師のフルベッキの証言です。

その時代(万延元年=1860)には、御国の人が厚く好みまする愛国心を知れる者は一人もありませんでした。
皆我藩と我主人に向って忠義を尽すのみであって、大日本帝国の事を思う者は至って稀でありました。
これは実際私が目で見たことでありますが、例えば某藩の侍が私の宅へお出でなさった時、私が椅子を出して、お掛けなさい、私傍(そば)へ寄る、うまく話が出来る、色々話が出ます。
ところへ奉公人が来まして、熊本の侍が参りました、どうしましょうかと申します。
私は勿論通せと申します。
私また椅子を持出します。お客が二藩の人となると、奇妙なことになります。
二藩の人が安心出来ないようになります。互いに睨み合っているところは外国人に逢うようです。
私が色々話をいたしまして始めて平日の話が一通り出来ます。しかしこれは不幸です。
二、三分経ってまた一人他の藩のお侍が見えます。大変なことになります。
こんどのお侍は薩摩です。また椅子を出しますと、お客が三人並びます。
益々おかしくなって、三人ながら不安な顔で私の顔を見ます。少しも傍(そば)を見ません。うまく話が合わなくなって来るのです。
両端の人は、まだどうかこうか、いいのですが、真中の人は堪(たま)りません。間もなく暇(いとま)を告げます。
度々ありました。いつでも真中が先へかえります。
こんな可笑しいことのあった時代の、この三人は、日本帝国のことを思わなかったのです。
この藩士にとっては他藩の人は外人の如しでした。
愛国心というもの少しもありませんでした。
【「外人の見た明治話」篠田鉱造『明治百話(上)』 本文中には名前が書かれていないが、語られている経歴をみてフルベッキだと判断】

江戸時代は国=藩でした。したがって当時の人が「政府」と語言えばそれは藩政府、つまり藩庁を指しています。

ここでフルベッキが言っている「愛国心」は、藩ではなく日本国全体をひとつの国家として大切にするという意味で使っていますが、幕末の侍にはそういう概念がそもそもなかったのです。

先にのべた斉彬の「日本一体一致」という発言について、ある人は「現代社会でたとえれば、『宇宙人が攻めてくるから地球全体がひとつの国家となってこれに立ち向かおう』と呼びかけたようなもの」と説明していますが、まさにそのとおりだと思います。

このような斉彬のえがいたグランドデザインを、弟久光にひきいられた薩摩藩士が中心になって実行したから明治維新がなしとげられた、というと言い過ぎでしょうか。

(注)冒頭の写真に関して、右から二人目の大柄な人物が西郷隆盛だという説がありますが、これは重富島津家の人々を写した写真で、この人物は小田原瑞哿(おだわら ずいか)という重富島津家の侍医であることが確認されています。
くわしくは桐野作人『さつま人国記 幕末・明治編4』(南日本新聞社)の「西郷隆盛と間違えられた小田原瑞哿」をご参照ください。



via 幕末島津研究室
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