二月田温泉浴槽配置図

(『薩藩海軍史』より)

芋虫をつまんで女中を追いかけ、女湯にも乱入

江戸時代をつうじて最高の名君といわれる島津斉彬の日常はワーカホリック(仕事中毒)の状態だったようですが、まったくの聖人君子ではなく、時には女中や側近にいたずらをすることもあったそうです。

明治37年の史談会で、島津家事蹟調査員の寺師宗徳と馬廻役(うままわりやく=藩主の護衛にあたる側近)として斉彬に仕えた本田孫右衛門とのやりとりにおもしろい部分があります。

寺師 女中などの話でも、気さくな方で、いたずらをなさるる事が上手の様子に承りますが

本田 それはいたずらは為さるる。私などが渋谷に居る時に、後に植木畑がある。午後になるとそこのあたりに運動に御出でになる。芋などが植わって居る時分に、芋虫をつまんで女中にやらるる。キャッキャッといってにげる。それを追っかけてやらるる。そういう事をなさるる。

寺師 湯殿が殿様と女中のと並んであって、其間にくぐりがある。女中は遠慮のないもので、何十人も一緒に行く。銭湯同様で陰部を隠さぬ。隠すと異常があるというようになる。それで両方の湯殿の間に潜りがあって、盛りの時に潜りを這入って御出なさるる。そうすると遁げる、転げる、大さわぎという。それで皆がこわいというより、親しみ有難いという方であった様子
【本田孫右衛門「島津斉彬公逸事問答数條」 史談会速記録第169輯】

殿様の湯殿と女中の湯殿がならんでいるというのは不思議な気がしますが、じっさい斉彬が愛用した二月田温泉(にがつでんおんせん=砂蒸しで有名な鹿児島の指宿温泉の近くにある名湯)に残っている浴槽の配置をみると、泉源の近くに殿様の“御前湯”があり、となりが“女中湯”、その下流に“士湯(さむらいゆ)”、最後が“足軽湯”という順番になっています。

側近を感電させて大笑い

斉彬に仕えて集成館事業にたずさわった市来四郎もいたずらの被害をこうむりました。市来四郎日記の安政4年(1857)7月3日「エレキテル予に御試し製造を命ぜられたり」という中に、こんなことが書かれていました。(分かりやすくするため読み下し文にし、「 」をくわえてあります。原文はこちらの33頁)

エレキの車を(斉彬)ご自身にお廻し、我らへ線を取りおり候よう仰せ聞かされ候につき取りおり候ところ、はなはだ強くお廻し成らせられ、そのまま御前へ真うつぶしに倒れ進退こまりおり候ところ、お笑い成らせられ、
「さすがの正右衛門(市来)もこまり入りた」
とご大笑あそばされ、ご免じ成らせられ候ところ、これにはこまり入り候。
女中など過分にまかり通り、物笑いにて候。
それより井上(庄太郎、側近)へお取りなされ、これは仰向きに倒れ候。又大いにお笑いにて、
「なにぶん早く充分の品を造り出せ」
と仰せ聞かされ候。
【「市来四郎日記(一)」 『鹿児島県史料 市来四郎史料一』】

発電機であるエレキテルにつながる電線を市来にもたせて、強く発電したら市来が感電してうつ伏せにたおれ、動けなくなった姿を見て斉彬が大笑いしたようです。

面白がった斉彬は、次に側近の井上にも同じようにしたところ、井上も感電してこんどは仰向けにひっくり返ったので、斉彬がまた大笑いしたと書かれています。

ようすを知った女中たちが通りすがりのようにして見物にきて物笑いにされたとも書かれていますので、さぞや恥ずかしかったことでしょう。

名君が子供のようないたずらをして喜んでいたことを知ると、ちょっと親しみをおぼえますね。


via 幕末島津研究室
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