島津斉彬肖像
(『公爵島津家記念写真帖』より)

お遊羅騒動でつくられた敵対イメージ

江戸時代をつうじて最高の名君ともいわれる島津斉彬と、異母弟の久光。ふたりの関係はどうだったのでしょうか?

幕末の島津家をゆるがせた御家騒動「お遊(由)羅騒動」では、藩主斉興の側室お遊羅がわが子久光を藩主にさせるために正室の長男で世子(世継ぎ)の斉彬の子供達を呪殺していると思い込んでお遊羅や家老の殺害を企てた、斉彬派の藩士ら50名が処罰(うち切腹13名)されました。

この話をもとにして昭和6年(1931)に直木三十五が小説『南国太平記』を書き、それが何度も映画化されたほか、昭和54年にはNHKが全28話の連続時代劇『風の隼人』として放映したため、お遊羅騒動は広くしれわたることになりました。

藩主の座をめぐるあらそいですから、お遊羅の子供である久光が斉彬と敵対関係にあるように描くほうが話はわかりやすくなります。 しかし、本当はどうだったのでしょうか? 

斉彬ははじめから久光に好感

斉彬がお遊羅を「奸女」といってはげしくきらっていたのは事実です。しかし久光への評価はまったくちがっていました。

嘉永元年(1848)3月に斉彬が国元での隠密につかっていた山口不及にあててだした手紙には、久光について、「自分の考えでは人物もよく、自分にも大変よくしてくれた。世間(藩内)の評判を知りたいものだ」とたかく評価しています。 

さらに、その2ヶ月後にだした手紙には、久光が藩政に携わるようになったことについて、
「これはよいことだと思う。この人(久光)は随分よろしい」
「学問もあるので、調所(ずしょ)・二階堂などの無学とはちがう」
「表面は柔和だが、内心剛直な面があり、政治に集中すればよい結果をえるだろう」
と、久光に強い期待感をしめしています。【「三七九 山口定救へ書翰 五月二十九日」鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻】

手紙の中に調所とあるのは調所笑左衛門で、大借金に苦しんだ薩摩藩の財政を立て直した家老ですが、斉彬が藩主になると新事業に巨費をつぎこんで昔のようになるのではないかとおそれて、藩主就任に反対していました。二階堂志津馬は調所の腹心で、これも反対派です。

藩主就任後は国元では久光が唯一の相談相手

斉彬はたいへん交際範囲のひろい殿様でした。江戸においては松平春嶽や伊達宗城などの諸賢侯、岩瀬忠震(いわせ ただなり=日米修好通商条約交渉を行なう、初代外国奉行)や江川英龍(えがわ ひでたつ=韮山代官で海防の権威)をはじめとする有能な幕臣、さらに名高い蘭学者や漢学者たちとも交流がありました。

しかし、薩摩では斉彬とハイレベルの話ができるのは久光だけだったようです。斉彬の大叔父(ただし年齢は2歳下)で、島津家から養子に入った福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)が、斉彬からきいた話を、島津家の事蹟調査員だった市来四郎にこう語っています。

「家老中大身ノモノニ一人モ用立モノナイ、丁度入組タル使デモ遣スモノ寡シ、是ニハ差支ルト申サレタル事毎々ナリ、弟周防〔久光公旧名〕ハ学問モアリ、咄相対ニナルハ此一人ナリ、江戸ヘ四五年モ出シ取馴レルヤウニイタシ度心得ナリト申サレタル事アリ」
(「249 黒田長溥公市来廣貫へ御親話」『鹿児島県史料 斉彬公史料第三巻』)

現代文になおすと、「(斉彬から)『家老など大身の者に、使える者が一人もいない。ちょっと込み入った話だと使いにだせる者がほとんどいない、これには差支える』と言われたことがたびたびある。『弟周防(すおう:久光の旧名)は学問もあり、話相手になるのはこの一人だけだ。江戸に四五年も出して(さまざまな人と交流させ)、世間になれさせるようにしたい』と言われたことがある」です。

じっさい、斉彬は安政5年5月に幕府に出した上申書(日米通商条約締結について幕府が諸大名に意見を求めたものへの回答書)も久光に見せてから提出していますし、人事問題についても久光の意見を求めています。江戸とちがって、国元では久光が唯一のブレーンでした。

本来なら、斉彬の相談相手となるのは家老たちの役割です。しかし、斉彬の話についていけるようなハイレベルの人材は、門閥から選ばれた家老の中にはいませんでした。かといって久光とだけ相談しているとなれば、家老たちも内心おだやかではないでしょう。

斉彬が安政5年4月12日に久光に出した手紙には、「急いで相談したいことがあるのだが、まだ家老たちにも話していないので、いつものようにふらっとやってきたようなそぶりで登城してくれ」と書いてあります。【「七三〇 島津久光へ書簡 四月一二日」 鹿児島県史料『斉彬公史料第三巻』】

こういう気づかいをしていたので、城内でも久光が斉彬のブレーンであることは、あまり知られていませんでした。明治の終わりに、島津家や毛利家が中心となった歴史研究会、温知会の講演で菊池則常がこう語っています。 

安政5年7月16日、斉彬公はにわかに疫病で薨去(こうきょ)に相成りましたが、臨終の際、久光公を枕頭に呼び、その嫡男又次郎君(島津忠義)に跡を続がせ、そうして、久光公がこれを輔佐して藩政を振興し、公武を合体させて国論をひとつにまとめるという志を受けつぐべき旨を遺嘱されました。サアそれが藩内に聞えますと、周防様(久光)はそういうえらいお方であるかと驚いたような訳でありました。
【菊池則常「島津久光と島津斉彬との関係及び文久二年久光上京の趣意」 続日本史籍協會叢書マツノ書店復刻『維新史料編纂會講演速記録二』】

久光も斉彬を心の底から尊敬していた

久光の方も斉彬を深く尊敬していました。寺師宗徳(てらしむねのり:市来四郎の甥で、市来とともに島津家の事蹟調査を行う)が久光の側近として仕えていた高崎正風からきいた話です。

あるとき久光公に斉彬公のお人なりを伺ったとき、久光公は「順聖院(じゅんしょういん:斉彬の法名)様のことは、説明する言葉がない。しいて言えば書経にある“蕩々(とうとう)として能く名(なづ)くることなし(君徳は広大なので、民はそれに包まれていることを感じられないから、言葉にできない)”とあるようなものか。とうてい我々のうかがい知るところではない」と言われたことがある。それほどまでに尊敬されていた。
【川南盛謙「島津斉彬公の逸事附川南盛謙君の事歴附二十九節」 史談会速記録第153輯】

斉彬は久光を厚く信頼し、久光も兄を神のごとく尊敬していたようです。

じっさい、久光が斉彬の死後にとった行動は、斉彬が生前に考えていた計画つまり「順聖院様御深志」を実現するためのものばかりです。

小説やドラマでは野心家としてえがかれることが多い久光ですが、彼の行動は自分の欲や利害からではなく、兄の志を自分が引き継がねばならないという強い義務感にかられて行なったもののように思われます。 





via 幕末島津研究室
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