水戸斉昭(烈公)肖像
京大付属図書館所蔵

「一橋派」vs「南紀派」

国家や政府が滅ぶ原因のひとつは内部対立ですが、徳川幕府の末期においてもそれがありました。そのひとつが13代将軍家定の後継者をめぐる改革派と守旧派の対立です。

家定将軍は病弱で子供はなく、本人は表現能力に問題があって自分の考えもうまく伝えられなかったことから、早期に世子つまり後継者を決めておくことが望ましいというのが周囲の一致した考えでした。

しかし、だれを後継者にするかで対立がおこります。将軍になれる有資格者のなかで最も優秀だと目されていたのが水戸家出身で御三卿の一橋家を継いだ慶喜、もうひとりは現将軍にもっとも血筋が近い(従弟)紀州家の慶福(よしとみ)です。

従来のルールでは血筋が最優先ですから、すんなりと慶福に決まってもよさそうなものですが、黒船来航以来それまでの旧例政治が通用しなくなってしまった幕府には優秀なリーダーが必要で、一橋慶喜を世子にすべきだという声が起こります。

その声をあげたのが親藩筆頭の福井藩主松平慶永(春嶽)で、島津斉彬たち外様の有力大名もそれに賛同しました。彼らは「一橋派」と呼ばれます。

これに対して慶福を推す「南紀派」の中心人物は譜代筆頭となる彦根藩主の井伊直弼で、結果はご存じのように「南紀派」が勝って慶福が家定将軍の世子に決まりました。のちの14代将軍家茂です。

水戸斉昭vs井伊直弼

一橋慶喜は水戸斉昭の7男で、水戸家から一橋家に入りました。したがって水戸斉昭はとうぜん一橋派です。

斉昭は名君といわれ、水戸家のような御三家は本来であれば幕府の政治に関与できないところを、老中阿部正弘の要請で海防参与として幕政に加わっています。

将軍の後継者をめぐる抗争で斉昭と井伊直弼は対立したのですが、じつは二人があらそった原因はそもそもは食べ物のうらみだという説があります。

これは昭和4年の史談会で紹介された『水戸藩党争始末』に書かれているエピソードです。(読みやすくするため現代仮名づかいに改め、「」と句読点をおぎなっています)

老公牛肉を好み給いければ、年々寒中に彦根より献ずる事なりしに、直弼家督後はこれを献ぜず。その故は直弼一旦僧に為りたることあり、仏法を信じたる故、国中の牛を殺すことを禁じたるなり。
老公此の事を知らしめ給わず一年寒中に待たせ給えども献ぜざりければ、御使を遣わされ、「毎年相楽しむ所、今年参らせず。何卒贈らるべし」とありしに、彦根侯の答えには「今年より国中にて牛を殺すことを禁じ候間、牛肉献ずべきようなし。お断り申上げる」とあり。
老公尚又御使を遣わされ仰せけるは「屠牛を禁ぜられたりとあれば是非に及ばざれども、是迄年々用いたることにて、殊に江州の牛肉は格別の事なれば我等のためのみにても別段調えられたく頼むなり」とありしかども、井伊侯承知せずして、「何分国禁に致し候こと故、相成り申さず。立って御断り申す」との答えなり。
此の如く公より度々御頼みありし事を、更に承諾せざりしは流石(さすが)に不快に思召されしとなむ。
(平井直「井伊直弼朝臣卒去後七十年を偲ぶ」 史談会速記録第378輯)

現代風に書きなおしておきます。

水戸の老公(斉昭)は牛肉が好きで、毎年寒の時期(一年でもっとも寒いとされる立春前の30日間)に彦根藩から贈ってくる牛肉を楽しみにしていたのに、井伊直弼が家督をついでからは来なくなった。というのは直弼は藩主になるまえに僧侶だったことがあり、仏の教えを守って国中の牛を殺すことを禁じたからだった。

そうとは知らない老公は、寒になっても大好きな牛肉が来ないので使いを送って、「毎年楽しみにしているのに今年は届かない。どうか贈ってほしい」と伝えたが、直弼からは「今年から牛を殺すことを禁じたので、牛肉を差上げることはできません」との返事だった。

老公はふたたび使いを出して、「牛を殺すことを禁じたのであれば仕方ないが、これまで年々食べていたし、近江牛は格別美味しいので水戸家のために特別につくってもらいたい」と頼んだが、直弼は承知せず「なにぶん国禁にしたので、それはできません。お断りします」と答えた。

このように、老公よりたびたび頼んでも一向に承知しなかったことについては、さすがに不快に思われたとのことだ。

寒干牛肉

滋賀県のホームページによれば、江戸時代に彦根藩では乾燥牛肉をつくっていたとあります。

この干牛肉は、塩加減をできるだけ少なくするため、1年で最も寒い1月上旬から節分までの1か月間で作られていました。古来この1か月間は「寒(かん)」と呼ばれていたため、「寒」干牛肉として薬用に食されていたそうです。
その頃の干牛肉の「製法書」が残っています。「寒中に肉を割き筋を取り去り、清水に漬けて臭気を抜き、蒸してから糸につないで陰干しする。寒中でなければ、寒明けの頃でも塩を加えなければ痛んでしまう。温暖な季節でも塩を多く使用すれば製造できるが、薬用としての性味が失われ、御用に立たない。」と書かれています。
(滋賀県ホームページ「近江牛の歴史」)

同じホームページには、「嘉永元年(1848年)12月に彦根藩主井伊直亮(なおあき)から斉昭に牛肉を贈ったことに対する礼状」も紹介されています。

井伊直亮というのは直弼の兄で先代の藩主ですから、直弼が藩主になるまでは斉昭が「毎年相楽しむ所」と書き送っているように、井伊家から毎年寒のころに干牛肉(ビーフジャーキーのようなものと思われます)をプレゼントされていたことがわかります。

井伊直弼のあだ名は「愛牛」

井伊直弼について、島津家の事蹟調査員であった市来四郎が明治21年に旧宇和島藩主の伊達宗城を訪ねたときの談話があります。

井伊は一旦僧侶まで成りし人なれば、余程学問はありし。其性質を評せば、強情一辺にして遠慮深謀を抱ける人にはあらず。思い込みしことは必らず為すと云うべきも、先づ突き当りて只一筋に遣り通すと云うて可なり。深く精神を籠(こ)めて尽せしに疑いなし。然かし余程疑念深く狐疑するの癖あり。
井伊は彦根に於て曾(かつ)て牛殺しの神事ありしを同人の世に之(こ)れを廃止せしことあり。因って牛を愛せしとて「愛牛」と綽名(あだな)せり。
(「島津家事蹟訪問録 従一位伊達宗城君談話」 史談会速記録第168輯)

宇和島伊達家は井伊家の親戚なので宗城は直弼と交流があったのですが、直弼に対する見方はけっこう厳しく、「学問はあるが強情もので、深い考えはない。思い込んだらそれをやりとげるという猪突猛進タイプだが、うたがいぐせがある」との見解です。

そして、彦根藩で行なわれていた牛殺しの神事をやめさせたことから「愛牛」というあだ名をつけられたとも語っています。

斉昭と井伊の不和が幕府の崩壊を早めた

先ほどの『水戸藩党争始末』には、斉昭と直弼の反目についてこのように書かれています。

幕府末路、諸侯中の人傑を算(かぞ)うる時は、親藩に於ては先づ指を水戸老公に屈し、譜代に於ては指を彦根大老に屈せざるを得ず。若(もし)此両雄にして能(よ)く同心協力して、幕政を参画補弼(さんかくほひつ=加わって助ける)したらんには、仮令(たとい)百の西郷、千の木戸ありと雖(いえど)も、三百年の幕府を倒すこと、彼が如く枯を挫(くじ)き朽を摧(くだ)くより易きを得べからず。然るに不幸にも両雄相軋轢(あつれき)し、随て海内の有志亦(また)水彦両党に分れて互に反目疾視(しつし=にくみ見る)し、争闘殆ど寧日(ねいじつ=安らかな日)なし。邦国殄瘁(てんすい=人口が減少し国力が弱る)せざらんと欲するも豈(あに)得べけんや。
(「老公と大老の不和」『水戸藩党争始末』)

かなり読みづらいのですが、要するに幕府を支える親藩と譜代大名それぞれのリーダーである水戸老公と井伊大老が助け合っていたならば、たとえ百人の西郷隆盛・千人の木戸孝允がいたとしても、幕府があのようにあっけなく崩壊することはなかっただろうとの意見です。

その原因が近江牛のビーフジャーキーにあったとしたら……。

歴史というのは面白いものですね。


via 幕末島津研究室
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