徳川慶喜
(国立国会図書館デジタルコレクション)

大原の宿所で関係者が懇談

幕府が勅命にしたがうということをきめて、慶喜の将軍後見職と春嶽の政事総裁職就任が内定したあとの7月23日に、関係者が大原の宿舎である伝奏屋敷に集まりました。

出席したのは慶喜、春嶽、老中の脇坂安宅(わきさか やすおり)、水野忠精(みずの ただきよ)らで、久光も呼ばれました。

当時の武士のランクは将軍との関係できまります。大名は将軍の家来になりますが、久光は藩主忠義の父とはいえ形式上は忠義の家来にあたりますから、各出席者よりワンランク低い陪臣(ばいしん:家来の家来)として、次の間に控えていました。久光から聞いたそのときの様子を、市来四郎が史談会でこう語っています。

(久光が次の間に控えていると)一橋殿が下りてきて、「是非同じ座敷にお這入りなさい」と云われるけれども、「恐れ入る」と云う中に、又春嶽公が下りて来て袖を引っ張って、「是非同席に這入れ」と云われることであった。けれども、「実に恐れ入りまする」と云って居ると、今度は閣老(老中)が両人一緒に下りて、手を引くやら袖を引っ張るやらで頻りに勧めるから、已むを得ず春嶽公の次席に出で閣老よりも上の席に着いた。
【市来四郎「故薩摩藩士中山中左衛門君の国事鞅掌の来歴附三十四節」 史談会速記録第19輯】

それぞれの座席位置(久光は春嶽のとなりで、老中よりも上座を割り当てられています。最上席は御三卿の慶喜でしょう)が決まったあとに、まず慶喜が、続いて春嶽が久光の前にやって来て、推挙にたいする感謝の言葉を述べました。

そして、慶喜から「改革の順序はどうお考えか?」との質問がでたのに対し、久光は

別に意見と申すこともござりませぬ。既に両公御出職、賢明の御役人御揃のことで、私が申上る程のこともござりませぬ。唯願う処は、叡慮遵奉は無論、事の軽重寛急(=緩急)を御慮あると、人気(じんき:ひとびとの気持ち、世論)一致、和合の御措置が急務と存じ奉る。何卒至誠を以て万事御運びになって、権謀術数らしきことを一切なされざるを肝要と存ずる
【市来四郎「薩長両藩不和の原因に関する事実附二十九節」 史談会速記録第25輯】

つまり「幕府には賢明なお役人がそろっている上に、(慶喜・春嶽の)両公が就任されたので、改革について私が申上げることはございません。これからは世論が分裂せぬよう、万事誠実に運営し、権謀術数のようなことを一切行なわないようにするのが肝要とぞんじます」とだけのべています。

久光としては、兄斉彬が高く評価していた二人に国の政治をまかせればもう安心、すべてうまくいく、と考えていたにちがいありません。慶喜から意見を求められて、兄の持論であった『人の和』に言及しただけです。さいごに『権謀術数』をしないことと釘をさしているのは、それまでの幕府の姿勢に対する不安があったからでしょう。


慶喜、久光を賞賛する

久光が編纂を命じた薩摩藩の維新史料『旧邦秘録』には、慶喜が初対面の久光について、後日春嶽に「島津久光は聞いていたよりも高邁で才知があり明敏な人物だ。僻遠の薩摩にこのような人物がよくも出来たものだ」と語ったということが書かれています。

六月(正しくは七月)二十三日、国父公大原卿ノ御旅館ヘ御参向、一橋刑部卿ト初テ御面接アリ、越前々中将殿ニモ御来会、(中略)
其時一橋公ニハ、今迄御名声ノミ聞カセラレ御親接ハ初メテナリシガ、御論旨高尚綽然タルニハ頗(すこぶ)ル感嘆セラレタリトゾ、一橋公後日越前公ヘノ御譚(おはなし)二、島津和泉(久光)ハ聞キシヨリモ英邁聡敏ノ人物ナリ、僻遠ノ薩州ニケ様ノ人物能クモ出来タル者ナリトノ仰アリシトゾ、
【「旧邦秘録 96 六月二十三日」『鹿児島県史料 市来四郎資料二』】

斉彬は江戸で生まれ育って、若い頃から諸大名や幕臣はもちろん、漢洋を問わず一流の学者たちとも幅広く交流していたことが知られています。しかし久光は薩摩から離れたことがありませんでした。それにもかかわらず、慶喜を感心させるような優秀さを示したということです。

市来が久光から聞いた話では、両者が親密に語り合ったということはなかったようですが、慶喜も非常に頭のいい人物でしたから、言葉のはしばしから久光の非凡さを見抜いています。

「綽然(しゃくぜん)タル」は「釈然」とおなじで「釈然としない」の反対ですから、久光の発言が高尚で理路整然としていることに「すこぶる感嘆」したのです。僻地の薩摩にこのような人物がよくも出来たものだという発言は、慶喜の真意だったのでしょう。

「島津久光の率兵上京(4) 大原重徳を勅使に選ばせる」で述べたように、当時の幕府は一橋慶喜を蛇蝎の如く嫌っていましたから、久光が率兵上京をして彼を将軍後見職につけていなければ、慶喜が政治の表舞台に立つことはなかったかも知れません。

二人はこののち政治的に対立することとなりますが、関係のはじまりはこのように友好的なものでした。



via 幕末島津研究室
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