西郷隆盛肖像
(『公爵島津家記念写真帖』より)

江戸参府許可

前回(島津久光の率兵上京(1) 久光の目的は何だったのか?)のべたように、外様大名の家来にすぎない久光の意見など幕府がうけつけるはずがありません。ましてや、その内容はこれまでのルールに反するものです。

幕府にこれを認めさせるためには、天皇の命令という形しかないのです。さらにはその前提として、久光が江戸参府することを幕府から許可してもらわねばなりませんでした。

このため、側近の堀次郎(のち伊地知貞馨)が江戸に行き、忠義の参勤延期と久光の参府を交渉します。しかし、色よい返事はもらえません。困った堀は、薩摩藩の江戸藩邸を焼くという非常手段を取りました。

藩主が居住する屋敷がなくなったから参勤できないということで、幕府に延期を認めさせ、あわせて藩邸の建設工事を監督するという名目で久光の参府許可をとりつけます。この自焼作戦は大久保利通が発案したようです。

 西郷呼び戻し

このように江戸参府は許可をえましたが、勅命をもらうためには途中で京都に寄らねばなりません。それには朝廷から招かれる必要があります。久光は大久保を近衛家に行かせて交渉をさせますが、うまくいきません。

困った大久保は久光側近の中山中左衛門らと相談して、事態を解決するために西郷隆盛の呼びもどしを久光に進言します。西郷の人脈と交渉力に頼ろうとしたわけです。

久光はこのときまでは西郷との接点がなかったのですが、中山や大久保の意見をききいれて西郷呼びもどしを承認しました。

しかし、奄美大島からもどった西郷は久光の今回の計画は無謀であると非難し、小松帯刀・中山・大久保と深夜までの大激論になって、小松たちは西郷に論破されてしまいます。

つぎの日、中山は久光に前夜の次第を報告し、このうえは西郷から直接話を聞いていただきたいと申し出て、久光は西郷とはじめて対面しました。 

西郷、久光に暴言

以下は、市来四郎が久光から直接聞いたという話を史談会で語ったものです。京都から江戸に行って幕府人事に介入しようとする計画について、久光の記憶では、西郷はこう言ったそうです。

「(あなたは)斉彬公の如くではなく、地五郎(じごろ=田舎者)だから、ひょっと出て、天下大小名を駕御(がぎょ=コントロール)することは出来ない。」
【市来四郎「故薩摩藩士中山中左衛門君の国事鞅掌の来歴附三十四節」 史談会速記録第19輯】

久光は、「そこは西郷だけに、明白にはばからずに言った」と市来に語っていますから、初対面の久光に面とむかって「地五郞」と言ったのはまちがいないようです。久光はずいぶん無礼な奴だと立腹したことでしょうが、その場で怒ることはなく、対話をつづけました。

西郷のこの発言については後日談があります。西郷と同時期に大島に流されていた友人で歴史学者の重野安繹(しげの やすつぐ)の話では、西郷は「(あのときは)島から帰ったばかりでテンションが上がっていたから、遠慮なく言いたいことを言ってしまったが、過激のいたりでまったく考えがたりなかった」と後悔していたとのことです。

其席上の議論のことを後に西郷が度々話し出でて、丁度(ちょうど)其(その)時は島から帰って来たところで、英気勃々(ぼつぼつ)として居ったから、憚(はばか)る所なく放言したが、実は過激の至り無考千万であったと後悔して居った。
【重野安繹「西郷南洲逸話」『重野博士史学論文集下巻』 雄山閣 昭和14年】



重野安繹
(『重野博士史学論文集中巻』より)


久光と西郷のくいちがい

久光と西郷の会談に話をもどしましょう。西郷は久光の計画に反対しますが、久光はすでに幕府への願もだして準備もととのっているので中止することはできないと、西郷の進言を却下しました。

すると西郷は、道中に諸国の浪士が待ち受けて面倒なことになるかも知れないから、自分が先発して浪士を鎮撫したいと申し出たので、久光もそれを承認しました。ポイントはここからです。

拙者(久光)は下ノ関まで陸行して、同所より蒸気船で大阪迄出る賦(つもり)であったから、下ノ関で待ち受けると云うことに約束した。其所で西郷云うには、「関東へ直ぐ御下りになりまするとも御滞京になりまするとも、下ノ関で御決しありたい」と申した。【市来四郎「故薩摩藩士中山中左衛門君の国事鞅掌の来歴附三十四節」 史談会速記録第19輯】

久光が市来四郎に語った西郷のやりとりでは、西郷は自分が先行して各地の状況を調べたのち下関で久光を待ち受けて状況を報告するので、それによってその後京都に寄るか江戸に直行するかを決めて欲しいと申し出たというのです。

西郷は下関に到着後、浪士たちが上方で不穏な動きをしているとの情報を聞き、久光を待つことをせず、ただちに上方に向いました。たいていの本には下関待機は久光が一方的に命令したとされていますが、それは西郷からの申し出だったというのが、史談会で語られた久光の認識でした。

西郷は、説明の手紙ものこさずに下関を出発しています。自分から言い出した約束を破った西郷に久光が怒ったのも無理はありません。
つけ加えると、このころ西郷は幕府のお尋ね者でした。幕府に対しては、西郷は月照と錦江湾に身投げして死んだと届け出ているので、西郷が生きているとわかれば藩は窮地に立たされます。

おそらく久光は、下関で合流後には西郷を行列にまぎれ込ませて、幕府に見つからないようにしようと考えていたはずです。

西郷にとっては浪士鎮撫が最優先だったのでしょうが、そもそも久光は幕府に斉彬プランを認めさせるために行動しているのですから、重要度の基準がちがいます。

久光としては目的を達成するために、うその報告をしていたことが発覚して幕府に追及されるようなリスクは極力回避したかったはずです。

西郷がふたたび島流しにされたのは、久光との認識相違が大きな原因だったと思います。 



via 幕末島津研究室
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