広重「東海道名所之内 高輪大木戸」

(国立国会図書館デジタルコレクション)


率兵上京とは?

幕末史で「率兵上京」といえば、文久2年(1862)に島津久光が1,000人の兵とともに京に上り、孝明天皇の詔勅をいただいて、勅使大原重徳(おおはら しげとみ)とともに江戸に下って幕府のトップ人事に介入した事件をさします。

久光のこの行動は江戸幕府はじまって以来の大事件だと思うのですが、日本史の教科書をみると

薩摩藩の島津久光は、朝廷と幕府にはたらきかけ、公武合体の立場から幕政改革をもとめた
【五味文彦・鳥海靖編『新もういちど読む山川日本史』 山川出版社】


のようにあっさり書かれているだけなので、大事件だといわれてもピンとこないでしょう。

しかしそれはだれも行なったことがない空前絶後の大バクチでした。そもそも幕府は大名が朝廷に直接接触することを禁じていましたし、ましてや陪臣(将軍の家来である大名のそのまた家来)にすぎない久光が幕政に介入するなどもってのほかです。

久光がこれをやりとげたことで幕府の弱体化が白日の下にさらされるとともに、朝廷の権威がクローズアップされて、京都が幕末政治の中心となりました。まさに幕末史のターニングポイントと言っても過言ではない出来事だったのです。

なぜそのようなことが言えるのか、順をおって考えていきましょう。 

江戸幕府の構成員は将軍直属の家柄だけ

そもそも江戸幕府というのは徳川将軍家の家政(徳川宗家内部の運営)からはじまっています。そのため、将軍直属の家臣しか政治に関与することができません。

わかりやすくするために現代の会社組織にたとえてみましょう。まず社長は将軍です。役員にあたる老中や大目付は5~10万石の譜代大名から選ばれます。そして部課長クラスが旗本で、将軍に拝謁することができない御家人は平社員というイメージです。

さらに江戸時代は厳格な身分制度がありましたから、各身分の間の移動はありません。現代におきかえると部長になれるのは部長の家の長男だけで、いくら優秀でも平社員が部長に出世することはありえなかったのです。(もっとも幕府崩壊直前にはそうはいっておられず、御家人出身の勝海舟が役員クラスの陸軍総裁に任命されています)

譜代大名や旗本・御家人というのは徳川家康に昔から仕えていた家来で、豊臣政権で家康の同僚だった人々は外様大名とされて幕府の政治にはタッチできません。

ついでにいうと、将軍家の親戚にあたる御三家・御三卿や親藩大名も将軍直属ではないため、この人たちも幕政には関与させてもらえませんでした。 

「天下泰平」は「変化させない」ことで成り立っていた

江戸時代においては、嘉永15年(1638)に終わった島原の乱ののちは元治元年(1864)の禁門の変まで、200年以上にわたって国内での戦がないという状態がつづきます。「天下泰平」という言葉のとおり、これは世界の歴史でも類をみない平和な時代でした。

その秘訣のひとつが「変化させない」ことでした。居住の自由や職業選択の自由は認められず、生まれた土地で親の職業を継いでいくことが社会のルールだったのです。言ってみれば「平和のために自由を制限した」時代でした。

政治の世界でも同様です。「旧例政治」と呼ばれるように、前例のないことつまり新しいプランは却下され、過去に行なわれたこと以外はできないきまりでした。先例を知っていることが大事で、カイゼンやクリエイティブな能力は無用です。

先ほど「部長になれるのは部長の家の長男だけ」といいましたが、才能がなくても、家に伝えられた過去の事例というノウハウだけで役人が務まったわけです。

しかし、嘉永6年(1853)の黒船来航で状況はいっきに変化します。それまでにない事柄がつぎつぎと発生して、旧例政治では対応できなくなったからです。幕府の役人はこのような事態に対処できず、ひたすら右往左往するだけでした。 

改革派が決起するも安政の大獄で挫折

このような状況を見かねたのが、それまで幕政に関与させてもらえなかった有力大名たちです。越前(親藩)の松平慶永、薩摩(外様)の島津斉彬、宇和島(外様)の伊達宗城らがその中心人物でした。

彼らは、幕府をたてなおすには優秀な人材を登用することが必要だとして、当時英名で名高かった一橋慶喜を将軍の世子(世継ぎ)にして頼りない将軍家定を輔佐させ、譜代などにこだわらず能力のある大名を幕政に関与させて、政治を改革しようとしたのです。

ふたたび会社にたとえると、生え抜きの社員だけでやって来た会社が時代の変化に対応できなくなったので、グループ会社の優秀な社長を次期社長に任命して現社長を輔佐させるとともに社外取締役制度を導入して、会社を立ちなおらせようと図ったようなものです。

しかしこの計画は守旧派の井伊大老によって阻止されました。さらに、日米修好通商条約が孝明天皇の勅許を得ずに締結されたのを改革派が非難したことに対して、幕府は改革派の大名・公家を隠居や落飾つまり現役引退に追い込みます。これが安政の大獄で、橋本左内や吉田松陰をはじめとする多数の藩士・志士が切腹を命ぜられ、改革派シンパの幕臣(優秀な人が多かった)は左遷されました。 

久光は斉彬の遺志を引き継ぎ、実行した

薩摩藩では、安政の大獄が始まる直前に藩主島津斉彬が急死します。死因はコレラとされていますが、はっきりしてはいません。

斉彬は臨終の床に久光を呼びました。斉彬側近で臨終に立ち会った山田壮右衛門は、斉彬は亡くなる前に次の藩主は久光か久光の長男の忠義のいずれかにと言ったが、その場で久光が辞退したため忠義に決まったと書いています。

哲丸様御幼少ニ付、御跡ハ周防(すおう)殿〔忠教(ただゆき:久光)〕又次郎殿〔忠徳(ただのり:久光の長男忠義)〕ノ間〔周防殿ハ辞セラレ、又次郎殿ト定メラレタリト〕
宰相様〔斉興公〕江(へ)奉伺(うかがいたてまつり)候テ御取究(とりきめ)申上候様、尤(もっとも)暐姫(てるひめ)様〔公ノ御長女〕江御婿養子ニ被遊(あそばされ)、哲丸様〔公ノ御長男、御年二歳〕御順養子ニ被遊度(あそばされたく)思召(おぼしめし)候事(引用文中の〔 〕内はいずれも原注)
【二三六 御遺言ノ趣山田壮右衛門筆記〔本書新納駿河秘蔵ス〕」『鹿児島県史料 斉彬公史料第三巻』】

このとき斉彬は久光に、日本を守るために公武合体・国是一定という自分の志を引き継ぐようにたのみました。日本を西欧列強の植民地にしないためには国内の分裂を防がなければならない(国是一定)、それには朝廷と幕府が一体となる必要がある(公武合体)というのが斉彬の考えです。

斉彬は、西欧列強がターゲットとする国の内乱に乗じて介入し、最後は植民地にしてしまうというやり方を知っており、日本がそうなることを恐れていました。日本を植民地にしないためには国内を分裂させてはならない、それが久光が斉彬から託された使命だったのです。

戦略家のエドワード・ルトワック氏は

国家のパワー、危機に対してどれだけ立ち向かえるかという力は、国民がどれだけ団結できるかにかかっている。国論が分断されてしまえば、その国家は必ず弱体化するのである
【エドワード・ルトワック 奥山真司訳『日本4.0 国家戦略の新しいリアル』 文春新書 】


と述べています。

当時の日本は朝廷と幕府の意見が対立して、まさに国論が分断されていました。安政の大獄で幕府は反対派を厳しく弾圧し、それに反発する志士たちが桜田門外や坂下門外で老中を襲撃するという、かつてない事態をむかえていたのです。

兄の遺命をまもるために、このような状態をなんとしても止めなければならない、久光はそう考えて立ち上がりました。  



via 幕末島津研究室
Your own website,
Ameba Ownd