生麦事件犠牲者の墓石(手前地面にあるのがリチャードソン、奥左マーシャル、同右クラーク)


テロではない、初めての攘夷行動に民衆は喝采

生麦事件以前にも外国人に対する殺傷事件はありましたが、それらはいずれも闇討ちでいわばテロ行為のようなものです。しかし、生麦事件は日本のルールを守らなかった外国人に対して、大名行列という公権力が白昼堂々と成敗したという点で画期的なものでした。

孝明天皇が攘夷を希望しているにもかかわらず、一向に攘夷を実行しようとしない幕府にいらだっていた民衆は、薩摩藩がついにやってくれたと喝采をあげ、久光を賞賛しました。幕府との交渉結果を報告するために京都入りした久光の行列は大群衆に迎えられます。当時の様子を、随行者のひとり磯永弘卿は友人への手紙にこう書き送りました。現代文になおすとこうです。

勅使大原重徳卿ならびに久光公京都にご到着、その日の京都は言葉に表せないほどのにぎわいでした。ご一行が通る道筋には老若男女が立錐の余地もないぐらいにたくさん集って、行列の通行をさまたげるほどでした。 ことに都の周辺からわざわざ出て来た者も多いとのことで、行列が通る時にはほめたたえる声が絶えず、私までも実に錦を着たような心持になって、誠にありがたいことでした。
【「旧邦秘録 125 閏八月十五日ヲ以テ在京磯永弘卿友人某へ送リタル書牘中、当時ノ事情ヲ抜抄シテ参考ニ供ス、前文略ス」『鹿児島県史料 市来四郎資料二』】

民衆は久光を神仏のように崇めた

孝明天皇も大喜びで、本来は御所に上がれない無位無官の久光を参内させて拝謁を許した上、太刀一振を与えました。先ほどの磯永は、御所から戻るときの様子をこのように記しています。(これも現代文にしています)

天皇からいただいた御剣は、御所からもどる際、とりあえず仮に御刀箱に納めて行列の先頭にささげ持ち、私をふくむ十人余りの士でそれを守護しました。 久光公に対する朝廷の扱いはじつに手厚いもので、公の名声は四方にとどろき、なかでも長い間幕府が朝廷を軽蔑していることをなげいていた洛中の者はみな喜んで、久光公を神仏同様に尊んでいます。 まことにお家の名誉であることはもちろん、久光公のご威名はたとえる言葉がないというのがいつわりのないところです。
【「旧邦秘録 125 閏八月十五日ヲ以テ在京磯永弘卿友人某へ送リタル書牘中、当時ノ事情ヲ抜抄シテ参考ニ供ス、前文略ス」『鹿児島県史料 市来四郎資料二』】


久光公のご名声は四方にとどろいて、なかでも洛中ではまさに神様のように尊ばれています。 我が公があるからこそ皇威もかがやき、国体も立ち、外夷もこれまでのように好き勝手なふるまいはできないだろうと言って、市中では久光公の御名を紙に書いて神仏の守り札のように柱などに張り付けたり、あるいはそれを神棚や仏壇に納めて崇めている者もあるとのことです。
【「旧邦秘録 125 閏八月十五日ヲ以テ在京磯永弘卿友人某へ送リタル書牘中、当時ノ事情ヲ抜抄シテ参考ニ供ス、前文略ス」『鹿児島県史料 市来四郎資料二』】

薩摩藩士の手紙なので自慢したい気持ちがあるでしょうから、一部にそういう人がいたというだけのことだとは思いますが、久光の名前(文久2年当時は「島津三郎」)を書いた紙を神棚や仏壇に納めて拝んだというのは驚きです。

しかし考えてみると、朝廷と江戸幕府の関係では事実上幕府が朝廷の上位にありつづけたのが、大原・久光コンビによるハードネゴでその関係を逆転させ、幕府を天皇の命令にしたがわせたのですから、天皇をうやまう京都の人々が久光をあがめたのも無理からぬことといえましょう。 

民衆の熱狂とは裏腹に、久光は今後を心配する

生麦事件に喝采したのは京都の人々だけではなく、日本中が薩摩の攘夷実行にわきたちました。しかし中には喜んでいない人もいました、その筆頭はほかならぬ久光です。

久光は西欧列強と日本の武力差をよく理解しており、軍事力で劣る日本が鎖国を続けることは不可能で、攘夷などできるはずがないと思っていました。しかし、いきがかり上とはいえ、英国人を殺傷してしまったからには、英国が報復してくると確信していました。

当時の久光の心情を、島津家事蹟調査員の市来四郎が史談会でつぎのように語っています。 

なるほどありがたい事でござりますけれども、久光においてはそれより一層心配が重くなって、小事を以て大事をひき起し、そのうえ朝廷においては外国人を殺したことを御賞誉下されたから、世間が攘夷一色になった、これからは攘夷をしなければならないと、これまでになく大変に心配するようになったそうです。
しかしながら、もはや致し方もない、ことに朝廷よりはご内々ながらもご褒賞も下されたので、この後は時と場合によっては攘夷をしなければならなくなった。しかし、むやみな事をしてはならない。
また朝廷よりはご褒賞も下されたので、国中の攘夷家はみな威勢がよくなって騒ぎも起こり内外ともに心配なことであるが、とはいえ、このさき一旦は外国と戦わねばならないという決心をしたそうであります。
【市来四郎「文久二年の八月二一日生麦に於て従士英人殺害の事実附十一節」 史談会速記録第10輯】

生麦事件がきっかけで国内の攘夷論者が勢い立っていましたが、久光には今の日本が西欧列強に勝てないことはよく分かっていました。久光の考えは兄斉彬同様、まずは開国して西欧の近代文明を取り入れ、列強と対等の国力や武力にすることです。日本中が熱狂している攘夷は、それから先のことだという意見でした。

しかし、孝明天皇からおほめの言葉と戦のシンボルである剣をいただいた以上は戦わざるをえません。薩摩に戻った久光は、腹をくくって、来たるべき英国艦隊との戦いの準備を始めました。 


via 幕末島津研究室
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