昨年2023年10月に書いた鎌倉の河原 その2

鎌倉の河原(かわら) | 鎌倉もののふ隊 (ameblo.jp)

 

江島道見取絵図を見てみると、現在の江島道の周辺がよく分かる。

現在の「藤沢橋」は「板橋 字 大鋸」と記されている。よって藤沢橋の辺りの字(地名)が大鋸だということも分かる。

 

御幣山(おんべやま/おんでやま)が見える。

現在の御幣公園大鋸公園御所ケ谷公園の一帯の山(藤沢市藤が岡1丁目)をいう。

御幣山は戦国時代に大谷公嘉(大谷帯刀左衛門)の居城があったが、豊臣秀吉小田原城攻めで落城。大谷公嘉は上野国西牧城で戦死している。

御幣山には藤稲荷大明神(御幣山の西端)や船玉神社があるはずだが江島道見取絵図には見えない。

 

この辺りを大鋸というのは、大きな鋸(のこぎり)を使う大工たち、大鋸引き(おおがびき)が住んでいたことに由来する。遊行寺の造営、玉縄城の修築などを行ったことが室町時代に移住してきた森一族の「森文書」に記されている。「森文書」は藤沢市指定文化財に指定されている。

源実朝が唐船の建造を行うために江島から大鋸(船久保)まで船を入れて、材木を切り出して船で運び出していた伝承が船玉神社に伝わる。鎌倉周辺では珍しい船玉神社ではあるが全国にはいくつもある。特に熊野大社(本宮)に通じる田辺音無川の上流にあり、船の神様として信仰されていることは抑えておくべきで(田辺、音無川、熊野社といえば鎌倉にもある)、少なくとも江島道見取絵図には描かれていないことからも、源実朝の伝説とはあまり関係がないと考えてよいのではないか。

 

奥田堰碑沿革によれば、水田を開き大鋸堰を築き、明治40年(1907年)5月29日に大鋸西大久保坂戸善行寺立石が合併して藤沢町となり、大正13年(1924年)には奥田堰が新たに造られ左岸の大鋸河原(大鋸1丁目・大鋸2丁目)、鶴巻(弥勒寺)、川名(川名1丁目)、右岸の大道東東横須賀奥田鵠沼などの耕地に農業用水として利用されたが、宅地開発が進み昭和33年(1958年)には用水としての使命を終え、奥田堰堰跡橋(えんせきばし)として名を残している。

 

藤沢橋のすぐ近くに、白山社稲荷社観音堂郷蔵という文字が見える。

山は崩されてしまったが、白山神社鼻黒稲荷大明神金砂山観音堂(砂山観音)などは現在も残っている。郷蔵は藤沢郷の年貢米の倉庫であり、この辺りの字を御蔵前という。閉業してしまった「蔵まえギャラリー」はその名残であろうか。

江島道と境川の間に「穢多」や「非人小屋」などが描かれていることが気になる。

 

この江島道見取絵図は藤沢宿と石上村との間の江島道を描いている絵図である。

石上村とは砥上村であり本来は「とがみ」と訓む。古くは土甘郷と書いて「とがみごう」と言った。いつから「いしがみ」と訓んでしまったのだろうか。

砥上公園庚申塔・道祖神・馬頭観音などが集められており、縁起が記された案内板がある。やや南に進むと石上会館があり、小さな石上神社が祀られている。

藤沢橋から石上村の間に、川名の向かいに兀山(ごつやま)という山が描かれている。古い地形図では土甘(砥上)には山は存在しない。唯一考えられるのは若尾山だけだ。

若尾山は現在は若尾山公園藤沢市役所大道小学校などの一帯(藤沢市朝日町)の丘を言う。ちなみに、江島道江島大道とも言ったので、江島大道の東を大道東といい大道東公園が遺名として残っており、また大道小学校もその1つである。

 

次に「わが住む村」に記される地図を紹介する。色は鎌倉智士が勝手に分かりやすくするために付けたもの。最初に紹介した江島道見取絵図はこの地図の尺度から土甘までの道である。この地図の誤りは「大鋸」「御幣」がだいぶ北に描かれてしまっていること。

 

ここで重要なのは、河原と記されているのが、現在の「御所ケ谷」と呼ばれる谷戸で藤沢市大鋸1丁目から大鋸2丁目にかけての一帯に記されていること。江島道見取絵図穢多非人が描かれている辺りでもある。

 

御幣山の麓に、御幣山に祀ってあった馬頭観音庚申塔などが昭和35年(1960年)に集められている。船久保一帯の宅地開発のときに行き場を失った石塔たちを集めたという。合同依頼碑の裏には鎌倉郡大鋸船久保の沿革が記されている。

 

舟久保藤稲荷などは製鉄に由来する地名であるともされている。

御所ヶ谷河原にあった小さな谷だが、昭和になってから宅地開発が進み家が増えたため段々畑を崩して御幣山城(御所)にちなみ御所ヶ谷と称したという。

 

藤沢の地名』に河原の範囲が描かれており、「わが住む村」と一致している。