かつて、鎌倉幕府を滅ぼすための討幕運動を繰り返していた後醍醐天皇。悉くの失敗によりとうとう隠岐島に流された。ところが、後醍醐天皇の皇子護良親王、河内国の楠木正成、播磨国の赤松則村など反幕勢力が各地で蜂起。そしてついに後醍醐天皇も隠岐島を脱出し満を持して挙兵。
鎌倉幕府は、後醍醐天皇追討のために御家人・足利高氏を京都へ派兵するが、まさかまさか、足利高氏が後醍醐天皇方に寝返り鎌倉幕府の六波羅探題を攻略。さらにその直後、東国では御家人・新田義貞が討幕の烽火を上げた。
鎌倉における元弘の乱の古戦場、史跡
〇村岡
元弘3年(1333年)5月8日に新田義貞の軍勢が武蔵国で挙兵し相模国へ進軍。5月17日に鎌倉郡村岡郷で戦いとなった。村岡は火に包まれた(太平記)。
八ツ島は現在の神戸製鋼藤沢工場内に供養碑がある。かつて戦死者たちを土葬した土饅頭(塚群)があり八ツ島と呼ばれており、刀剣類が出土するため近年まで祟りを恐れられていた。現在は兜松に合祀されている。洲崎古戦場に並ぶ古戦場の一つ村岡古戦場。
※神戸製鋼藤沢工場に許可を得て参拝
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〇洲崎
村岡から村岡川(現在の柏尾川)を渡った新田義貞の軍勢は、洲崎から化粧坂を経て鎌倉へ入ろうと進軍。洲崎古戦場碑が洲崎合戦を語り伝える。
新田義貞が陣を構えた大慶寺も火に包まれた。大慶寺には新田義貞が陣を敷いたことに由来する陣出という字が残り、後に陣出温泉と称される温泉があった。大慶寺にある狐坂は北條守時が山崎へ退いたと伝える。なお、現在の洲崎古戦場碑のある丘はかつて伊勢山と言って山頂に神明社があった。北條守時が自害した地とも伝わり千代塚とも言われた。千代塚の場所については諸説ある。
鎌倉合戦(元弘の乱)の戦没者を弔う供養塔・五輪塔は現在は等覚寺に集められ供養されている。
また近隣には泣塔がある。正式名称は深沢文和五年銘塔。鎌倉市指定有形文化財。鎌倉合戦(元弘の乱)の戦没者を供養するためにやぐらに建てられた供養塔。塔の基壇部に「文和五年丙申二月廿日供養了」いう銘文が発見されたことから、文和5年(1356年)2月20日に建立されたものと推測される。手広の青連寺に移設されたものの夜毎に「元の場所に戻りたい」とすすり泣く声が聴こえたため洲崎に戻されたという伝承があるが、青蓮寺には記録が一切ない。JR大船工場跡地にやぐらと泣塔はあり、現在は鎌倉市の敷地となっている。
※現在は崩れる恐れがあり泣塔には入れない
かつて海軍の工場、国鉄の工場があった。昭和17年(1942年)に工場を造るために伊勢山を崩して水田を埋め立て、線路の盛り土とした。戦後に海軍から国鉄に引き継がれ、後にJRが工場としたが平成18年(2006年)に閉鎖されていた。
青い線が現在の道路。赤い線がかつての山道(鎌倉道)。山の大部分が削平されたことが分かる。天満宮(伊勢山)は迅速測図(1880年)で標高86mとある。わずか80年ほど前には山がそびえていた。
陣出遺跡発掘調査で伊勢山の麓にあたる今回の調査区域、古墳時代から奈良時代・平安時代の竪穴住居跡が確認された。崩した山の上にあったと思われる縄文時代・弥生時代の土器も見つかっている。
洲崎から化粧坂に至る道には十三坊塚、十三坊坂、六本松山、六本松古戦場、葛原岡(梶原山)などが古戦場として名があがる。激しい戦だったが、北條軍は新田義貞の軍勢を食い止め、化粧坂を抜かれることはなかったという。
〇離山
新田義貞は軍を集めて離山で軍議を行ったという。
洲崎にいて駒立山方面へ向かったはずの新田義貞が離山にまで移動するというのは不可解である。
高野坂や長窪坂なども戦地になったという伝承があるがあまり信憑性はない。
〇片瀬
村岡から化粧坂へ攻めあぐねていた新田義貞は片瀬へ進軍し、片瀬で合戦となった(太平記)。新田義貞は駒立山で陣を張り、馬を勢揃いさせ、片瀬、腰越、十間坂、新田坂(日坂)でも合戦となり、満福寺で陣を張ったという。
駒立山は現在新林公園の山頂にある。
また手広から戦道峰を駆け登り大塚山でも合戦となった。大塚山山頂が大塚山古戦場である。戦道峰は手広坂(女坂)から上がることができる。手広坂(男坂)は通行止めとなっている。
駒立山・大塚山(戦道峰)・日坂などは見出山(現在の鎌倉山)を経て鎌倉へ向かう。聖福寺の裏山・陣鐘山で新田義貞は陣を張り、陣太鼓や陣鐘を鳴らしたと伝わる。陣鐘山の位置は諸説ある。聖福寺は極楽寺の塔頭であり、極楽寺でも激しい合戦となる。
〇極楽寺
極楽寺坂攻防戦で極楽寺は焼けたという。現在の極楽寺坂はかつては化粧坂と言われていた。亀谷にある化粧坂と同じようにかつては処刑場だったことにちなみ化粧坂という。佛法寺とその裏山である霊仙山でも激しい合戦となった。
新田軍は一度は極楽寺坂を越えたが押し戻されたといい、稲瀬川で大館宗氏らが戦死したという。稲村ケ崎に十一人塚があり、大館宗氏主従11人の供養塚がある。
〇鎌倉
稲村ケ崎から奇跡的に由比ガ浜に上陸した新田義貞。由比ガ浜でも激しい合戦となったとされている。元々、由比ガ浜は墓地であり、鎌倉合戦の戦死者以外の死者が埋まっているが、由比ガ浜南遺跡(由比ガ浜地下駐車場建設時)から4,000体の人骨、簡易裁判所付近(万霊供養塔・骨塚)から1,000体の人骨が発見されており、その中には鎌倉合戦で亡くなった戦死者もいるとされている。向原古墳群(無常堂塚・采女塚など)にも戦死者が葬られているとされている(残念ながら近年に和田塚という名称になってしまった)。
簡易裁判所の駐車場に骨塚供養碑がある。平日は一声かけて参拝できる。
新田義貞が陣を張った山が内裏山と伝わり、内裏山から北條館を攻めたという。現在は山麓に九品寺がある。九品寺は新田義貞が敵味方双方の戦死者を弔うために建立したとされ、発見された骨塚の人骨も移され供養された。乱橋碑や弁谷碑などにも鎌倉合戦について記されている。
※予め九品寺に許可を得て参拝。
九品寺境内には荒居閻魔堂があり、付近を流れる滑川は閻魔川とも称されていた。鎌倉合戦の戦没者慰霊のために甘縄から移した堂だが、津波で流されてしまったため江戸時代には建長寺の境内に移された。そのため山号は新居山という。
宝戒寺は、戦死者を弔うために後醍醐天皇が足利尊氏に命じて創建させた。
5月22日には北條一族慰霊供養のご法要・崇徳大権現大般若転読会が執り行われる。
ご縁日の特別限定御朱印をいただく。
葛西谷に建立された北條氏の菩提寺・東勝寺は、最後の戦いの地となった。
東勝寺の裏山には北條高時ら北條一族283人、家臣870人が自害したという腹切やぐらがある。
現在は落石の恐れがあり立入禁止になっている。
鎌倉幕府滅亡後に住職信海和尚が逗子池子に東勝寺(現在の東昌寺)を再建。
釈迦堂谷やぐら群には多量の生焼けの人骨があったといわれ、「元弘3年5月28日」と刻まれた五輪塔があったことから鎌倉合戦の戦死者が葬られたものと思われる。
東光寺(現在の鎌倉宮)の裏に護良親王が幽閉されていた土牢があったとされる。鎌倉宮のご祭神は護良親王であり、護良親王の身代わりとなって自刃した村上義光の像・撫で身代わりがある。
護良親王の墓は理智光寺跡と妙法寺にある。また理智光寺を管理していた東慶寺には護良親王の妹・用堂尼の墓がある。
〇浄光明寺
浄光明寺には北條守時の墓(やぐら)がある。
命日5月18日に近い日曜日に、鎌倉もののふ隊による奉納演劇「最後の執権北條守時」が上演され、北條守時公やぐらへの参拝・ご住職のお経のなかご焼香が行われる。
〇報国寺
由比ガ浜などで発見された人骨が九品寺や報国寺などに移されたとされ、また、戦死者を弔う石塔・供養塔なども集められ供養されている。
瑞泉寺の裏山奥に北條高時の首を持って逃げ込み埋めたとされる北條首やぐら、貝吹地蔵から番場ガ谷方面へ向かう途中に北條高時供養塔(お塔の窪やぐら)といわれる五輪塔がある。貝吹地蔵は北條高時の首を持って逃げ回っていた家来たちを地蔵が法螺貝を吹いて導いたという。
その他、朝比奈坂、小坪坂、名越坂などがゆかりの地である。