石器時代や縄文時代は短い弓を用いていた

『日本書紀』に毛人(蝦夷)が弓の名手で毒矢を使うという記述があります。『吾妻鏡』貞応3年(1224年)2月29日條に夷弓が短いことに触れられています。夷弓は毛人(蝦夷)の弓です。夷弓のような短い弓は、連射性に優れ、腕力を必要とせず、馬上で扱いやすい利点がある反面、大きい弓に比べると射程距離や貫通力が劣っており、馬上戦に向かない環境や歩射には向かないとされています。夷弓は騎射による機動戦において真価を発揮する弓であり、射程や威力は毒で補っていました。また、見通しの悪い山林での狩猟において射程はさほど問題にならず、狭い場所でも使いやすい短弓と毒矢(夷弓)は熊など大型獣を仕留めることにも活用されました。

素材については毛人(蝦夷)たちは自然木を利用した丸木弓削り弓と毒矢を用いたとされています。後には黒漆塗や樺皮巻などを行ったり、(弓の両端の弦をかける部分に)弭金物(はずかなもの)を付けたものも登場します。初速の力をもって近距離のものを射止めることに適しています。

『唐六典』武庫令に、歩兵が用いる長弓の素材は植物であるが、騎兵の用いる短弓は角弓が用いられたと記されており、『続日本紀』天平宝字5年(761年)10月10日條にも遣唐使が中国皇帝に日本の牛角7,800隻を貢上させたと記されています。角弓がどのような構造だったのか非常に興味深いです。

矢は軽い箆(の)に二枚羽を付けただけの簡易的なもので、鏃は骨鏃や石鏃が用いられていたとされています。

 

弥生時代・古墳時代にガラリと変わる

矢は金属が貴重であったため骨鏃や石鏃も用いられたものの、胴鏃や鉄鏃が主体となります。胴鏃は鋳造のため大量に生産できるため奈良時代まで用いられています。製鉄の技術が渡来したことを意味しています。

古墳時代(古墳出土)には70~150cmぐらいの弓が使用されたと『日本の甲冑武具事典』に記されています。つまり縄文時代まであるいは夷弓はそれよりさらに短かったことが分かります。また、正倉院蔵27張の弓のうち短いものは183.7cm、長いもので259.2cm、平均するとおよそ241cmあり、古墳時代から奈良時代にかけて長くなり、当時の戦い方は歩射が主流だったことが分かります。

弓材は信濃国から貢献された斧折樺(おのおれかば)いわゆるミネバリという1mm太るのに3年かかると言われている大変貴重な木のほか、檀(まゆみ)、槻(つき)、櫨(はじ)などの丸木を削って上下均衡の太さとし、内側に浅い樋(とい)を彫って、両端には銅製の弭(ゆはず)を用いました。
素地のままを白木弓といい、漆塗りは黒漆、赤漆などある他、献物牒には様々な名称が見られます。
弦は『延喜式』に弦枲と記され、苧(からむし)のことであり、精製片捻りして用いました。苧は茎の皮から採れる靭皮繊維で麻などと同じく非常に丈夫で、績(う)んで取り出した繊維を紡いで絲にしたり、糾綯(あざな)って紐や縄にし、荒く組んで網や漁網に用い、衣服や紙としても幅広く利用されてきました。なお苧が多く採れる国として苧国(むさのくに)があります。後に苧上国(さがみのくに)と苧下国(むさしのくに)に分かれますが、ムサの国は別名俘囚の国ともいわれており、多くの俘囚(蝦夷)が住んでいた地域でもあります。
矢の長さは『延喜式』の伊勢神宝征矢の長さが69.7cm、鏃は7.5cmで正倉院御物の矢もこれに近く、羽は二枚羽、三枚羽根、四枚羽などあります。

 

なぜ弥生時代・古墳時代に弓矢の長さや素材が変化したのか

昨今のDNA研究により、縄文人はハプログループDのY染色体を持ち、弥生人・古墳人はハプログループOのY染色体であることが分かってきました。ハプログループOは朝鮮や中国の人々と同じDNAであり、弥生時代以降に多くの朝鮮人や中国人が渡来したことを意味しています。弥生人・古墳人(渡来人)は産鉄・馬飼・稲作・言語・宗教などの文化や技術、そして天皇を中心とする律令あるいは国家を列島にもたらしました。

毛人(蝦夷)のDNAを持つハプログループDのY染色体は、現在アイヌに70%、本土に10%、沖縄に30%ほどの割合でいるとされており、弥生人・古墳人(渡来人)のDNAを持つハプログループOのY染色体は、現在本土に70%ほどの割合でいるとされています。つまり日本人4人のうち3人はハプログループO=渡来人(朝鮮人・中国人)ということになります。

石渡信一郎氏など古代蝦夷研究者の多くが「征夷とは、天皇家による奴隷獲得戦争である」としており、天皇家(渡来人)による日本制圧は、日本における古墳の分布と合致しています。また世界的に制圧された民族は滅びることが多く、その点縄文系のDNAが絶滅しなかった点は奴隷として、あるいは俘囚としての存在意義につながっています。

この時代から(出土した)弓矢の長さや素材が変化したのは、実際には変化したのではなく、別の民族が日本列島を制圧していったから、つまり別の民族の弓矢である、ということになります。

 

日本では流行らなかった弩

中国では漢の時代に有力な武器として用いられていた弩ですが、日本においては奈良時代に朝廷に弩師がおかれたにもかかわらずあまり行われた記録や形跡がありません。

平安時代には三善清行が意見十二ケ條に強弩為神と推奨したとされ、また嶋木史真が改良した弩を発明したとされていますが、あまり流行しなかったといわれています。

 

平安時代の弓はおよそ180cmほどか

『伴大納言絵詞』『粉河寺縁起絵巻』などに描かれている弓はおよそ180cmほどと推定され、出土した古墳時代から奈良時代にかけの弓に比べるとあまり長くないように見えます。現在の和弓はおよそ220cmほどなので、現在でいうところの半弓に近い長さと思われます。

このころから伏竹弓三枚打伏竹弓といった弓が作られ、遠くまで威力を保って射ることができるようになったとされています。

矢は野矢(鹿矢)、的矢、大鏑、鏑矢、滑目鏑などの語が見られ、強弓に伴い矢箆も長くなり、およそ84~91cmほどとされています。羽は鷲、鷹、鶴、鵠、鷺、山鳥が用いられたとされています。

大山祇神社に3張の弓のうち1張は平安時代のものとされ、黒漆平苧巻といわれる平教経奉納の弓で、伏竹三枚打の弓です。石上神宮や兵主神社所蔵の弓も三枚打であり、平安時代後期に作られたものとされています。

なお、鏃が長大し矢の先が重くなったことに伴い、矢が左手の親指の上から落ちることを防ぐために、弓の握り(弣(ゆづか))の上の右側に折釘状の椿(づく)を取りつけて矢の支えとしたことが諸書に散見しています。

鏃は雁股、大雁股、征矢尻、神頭、先細矢、鳥の舌、蝿(はい)の尾、鑿(のみ)根、楯割(楯破)、鋒先、疾雁矢、利雁矢、くるり矢、細能見などの語が見られます。

籘については『次將装束抄』『保元物語』『平治物語』などに滋く巻く滋籘(重籘とは異なり定まった巻き方はない)が見られます。重籘は室町時代以降に握上と握下に定まった回数巻く規格が定められたものです。『源平盛衰記』には笛の籘巻に似ていることから笛籘、籘を全体に巻いて漆をかけたものを塗籠籘二所籘三所籘のように巻いた数によっての名称、竹の節ごとに籘を巻く節巻などが見られます。いずれにしても籘や防己(つずらふじ)、樺皮などを巻いてニベの離れるのを防ぐ古い手法です。

 

胡簶(やなぐい)と箙(えびら)

岡山県天狗山古墳発掘の金銅装胡簶残片や埴輪に表現された胡簶(靫(ゆき))などから古墳時代にはすでに使用されていたことが分かります。また『古事記』『日本書紀』『万葉集』にも靫が様々な名称で記されています。埴輪の背に負った靫は筒状のものの左右に鰭(ひれ)がついており、近世のアイヌの矢入具にその痕跡を見ることができます。靫が壺胡簶に発展したとされ、壺胡簶には7本ほど矢が入るとされています。

正倉院御物に葛胡簶があり、防己(つずらふじ)で編んで作られたもので、箙と同じように右腰につけて受緒と懸緒で結びとめるものです。平胡簶と壺胡簶に分かれ、天平宝字8年(764年)恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)の胡簶と伝わる胡簶が現存しています。

平安時代のころには葛胡簶が葛箙に変化し、箙が大いに発達していきました。逆頬箙という毛皮を貼ったものや韋を貼った韋箙竹箙などが生まれます。また、鹿の角で細工した角箙などもあったといわれています。皺革を貼って黒漆を塗った箙として大山祇神社所蔵の和田義盛奉納と伝わる箙が後世長く用いられていきます。

数え方は一腰(ひとこし)、二腰(ふたこし)と数えます。

 

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