2022年6月5日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第22回の感想です。

完全ネタバレなので、ご注意ください。

 

NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。

 

第22回「義時の生きる道

なお、キャストの順番は以下の通り。

北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、北條政子(小池栄子)、比奈(堀田真由)、畠山重忠(中川大志)、実衣(宮澤エマ)、大姫(南沙良)、安達盛長(野添義弘)、源範頼(迫田孝也)、工藤祐経(坪倉由幸)、仁田忠常(高岸宏行)、岡崎義実(たかお鷹)、二階堂行政(野仲イサオ)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、九條兼実(田中直樹)、阿野全成(新納慎也)、道(堀内敬子)、土肥実平(阿南健治)、大江広元(栗原英雄)、梶原景時(中村獅童)、曽我五郎(田中俊介)、曽我十郎(田邊和也)、北條泰時/金剛(森優理斗)、鶴丸(佐藤遙灯)、後鳥羽天皇(菊井りひと)、安達景盛/弥九郎(渡部澪音)、千幡(吉川魁理)、比企能員(佐藤二朗)、善児(梶原善)、三浦義澄(佐藤B作)、千葉常胤(岡本信人)、丹後局(鈴木京香)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順で37名です。

 

第1~2回 安元元年(1175年) 伊豆国での源頼朝と八重の騒動
第3回 治承4年(1180年)5~6月 以仁王の挙兵のころ
第4回 治承4年(1180年)8月16~17日 山木襲撃事件直前
第5回 治承4年(1180年)8月17~23日 山木襲撃事件後から石橋山合戦まで
第6回 治承4年(1180年)8月23~29日 石橋山合戦敗北から安房国へ
第7回 治承4年(1180年)9月2~19日 安房国で再挙
第8回 治承4年(1180年)9月19日~10月10日 相模国鎌倉へ入り、北條政子と合流まで
第9回 治承4年(1180年)10月13~21日 富士川合戦後の源義経との対面まで
第10回 治承4年(1180年)10月中旬~11月初旬 佐竹征伐から帰るまで
第11回 治承4年(1180年)11月~寿永元年(1182年)2月14日 伊東祐親の自害まで
第12回 治承5年(1181年)~寿永元年(1182年)11月12日 牧宗親の髻を切るまで
第13回 寿永元年(1182年)11月13日~寿永2年(1183年)2月 源行家を庇護した木曽義仲が人質を出すまで
第14回 寿永2年(1183年)3~10月 木曽義仲討伐のため源義経が鎌倉を発つまで
第15回 寿永2年(1183年)11~12月 上総広常が誅殺されるまで
第16回 寿永2年(1183年)12月~寿永3年(1184年)2月 一ノ谷の戦いまで
第17回 寿永3年(1184年)2月~元暦元年(1184年)6月 一條忠頼や藤内光澄を誅殺するまで
第18回 元暦2年(1185年)1月~3月 源義経が鎌倉に入れず京へ戻る
第19回 元暦2年(1185年)8月~12月 守護地頭を認めさせるまで
第20回 文治2年(1186年)3月~文治5年(1189年)閏4月 源義経の首が鎌倉に届くまで
第21回 文治5年(1189年)閏4月~12月 北條時政と牧の方の子北條政範が生まれるまで
第22回 文治5年(1189年)12月~建久4年(1193年)5月 岡崎義実が謀反を企むまで

が描かれています。

 

文治5年(1189年)当時の登場人物の年齢を確認しておきましょう。

北條時政 保延4年(1138年)生 51歳 ※13人の1人
北條政子 保元2年(1157年)生 32歳  
江間義時 長寛元年(1163年)生 26歳 ※13人の1人
北條頼時/泰時(金剛) 寿永2年(1183年)生 6歳  
北條時連/時房 安元元年(1175年)生 14歳  
源頼朝 久安3年(1147年)生 42歳  
大姫 治承2年(1178年)生 11歳  
源頼家(万寿) 寿永元年(1182年)生 7歳  
源範頼 久安6年(1150年)生 39歳  
阿野全成 仁安3年(1153年)生 36歳  
小野田盛長 保延元年(1135年)生 54歳 ※13人の1人
安達景盛 安元元年(1175年)生 14歳?  
島津忠久 治承3年(1179年)生 10歳  
三浦義澄 大治2年(1127年)生 62歳 ※13人の1人
三浦義村 仁安3年(1168年)生 21歳  
和田義盛 久安3年(1147年)生 42歳 ※13人の1人
梶原景時 保延6年(1140年)生 49歳 ※13人の1人
土肥実平 天永元年(1110年)生 79歳  
岡崎義実 天永3年(1112年)生 77歳  
工藤祐経 久安3年(1147年)生 42歳  
曽我祐成 承安2年(1172年)生 17歳  
曽我時致 承安4年(1174年)生 15歳  
仁田忠常 仁安2年(1167年)生 22歳  
千葉常胤 永久6年(1118年)生 71歳  
畠山重忠 長寛2年(1164年)生 25歳  
畠山重秀 寿永2年(1183年)生 6歳  
足立遠元 大治5年(1130年)生 59歳? ※13人の1人
三善康信 保延6年(1140年)生 49歳 ※13人の1人
八田知家 康治元年(1142年)生 47歳 ※13人の1人
比企能員 天養2年(1145年)生 44歳 ※13人の1人
中原親能 康治2年(1143年)生 46歳 ※13人の1人
中原広元 久安4年(1148年)生 41歳 ※13人の1人
工藤行政 保延6年(1140年)生 49歳? ※13人の1人
後白河法皇 大治2年(1127年)生 62歳  
後鳥羽天皇 治承4年(1180年)生 9歳  
 
 

 
 

 

建久元年(1190年)11月9日、源頼朝(大泉洋)が上洛し、後白河法皇(西田敏行)と対面します。

九條兼実(田中直樹)とも対面し、九條兼実の娘がすでに後鳥羽天皇(菊井りひと)に入内していることを告げられ、源頼朝後鳥羽天皇に娘を入内させたいと思っていたので、お互いに牽制し合う姿が見られます。

院に源頼朝が昇殿できるのか、そして帯刀したまま昇殿してよいのか、そもそもこの時点で五位以上の官位(身分)にないのに立烏帽子を着用していてよいのか、時代考証に非常に疑問があります(朝廷の仕来りについて詳しい方ぜひ教えていただきたいです)。

 

上洛の最中、御家人たちが宿所で祝宴を開いています。

 

ここで後の伏線として描かれているのが、源範頼(迫田孝也)の宿所に、比企能員(佐藤二朗)、土肥実平(阿南健治)、千葉常胤(岡本信人)、岡崎義実(たかお鷹)、三浦義澄(佐藤B作)ら宿老たちが集結して源範頼擁立ともとれるような描写が描かれています。ただし源範頼自身は比企能員をたしなめる姿があり、源頼朝に代わって棟梁になるなどという気持ちは一切ないことが描かれています。

なお、右近衛大将拝賀の随兵7人は、比企能員江間義時小山朝政(中村敦)、和田義盛梶原景時土肥実平畠山重忠です。

 

 

建久3年(1192年)3月、日本一の大天狗と称された後白河法皇が崩御します。

12歳になった後鳥羽天皇も登場です。

 

 

建久3年(1192年)7月、源頼朝征夷大将軍に任官します。

筆者鎌倉智士が子どものころは、このときに鎌倉幕府成立、1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府と習ったものです。

 

 

阿野全成(新納慎也)と実衣(宮澤エマ)との間に四男の阿野時元が生まれたようです。

ドラマではまるで夫婦のような顔をして並んでいますが、阿野全成には正室が他におり、正室が長男から三男を産んだとされています。実衣阿野全成にとって妾です(『吾妻鏡』)。

建久3年(1192年)8月、源頼朝北條政子(小池栄子)との間に次男千幡(源実朝)が生まれました。

実衣千幡(源実朝)の乳母になっていることから、阿野時元千幡の生まれた時期が近いのではないかと推測されての描写かと思います。

 

 

源頼朝の側女、比奈こと姫の前(堀田真由)、初登場です。源頼朝の妾でしたが、後に江間義時(小栗旬)の妻となります。

比奈は、比企朝宗の娘で、比企尼の孫にあたります。『吾妻鏡』には「源頼朝の大のお気に入りで、並ぶ者のないほど美しく権勢のある女房」と記されています。で、なぜかそんな源頼朝の愛妾に対して1年以上の間ラブレターを送りつづけたのが江間義時です。ドラマでも比奈に「色恋になるとしつこいという噂があり薄気味悪い」と言われていました。ちなみに比奈に対してはしつこい態度は見られませんでしたが、江間義時のストーカーっぷりは八重(新垣結衣)に対して行われたいたことが伏線となっていたことが分かります。

なお『吾妻鏡』では見かねた源頼朝が「絶対離縁しない」という起請文を書かせて江間義時に愛妾を譲ったと記されていますが、ドラマでは妻北條政子怖さに適当に押しつけたように描かれています。

建久3年(1192年)9月25日、比奈江間義時に嫁ぎ、建久4年(1193年)に北條朝時、建久9年(1198年)に北條重時が生まれていますが、起請文虚しく、建仁3年(1203年)に比企氏と北條氏の対立によって離縁させられてしまいました。

 

 

建久4年(1193年)5月、曽我祐成(田邊和也)と曽我時致(田中俊介)兄弟が工藤祐経(坪倉由幸)への仇討ち、そして源頼朝への復讐を企てます。

伏線としては阿野全成が「文官が重宝されているので御家人に取り立てられることはないだろう」という発言がありました。曽我時致も「戦が起きなければ武官は報われない、文官ばかりが出世する構造を築いた頼朝」へ恨みを抱いていました。

工藤祐経が恨みから伊東祐親を殺害しようとしたところ、安元2年(1176年)10月、流れ矢にあたり伊東祐親の長男河津祐泰(山口祥行)が亡くなりました。河津祐泰の遺児こそが曽我兄弟で、曽我兄弟にとって工藤祐泰は親の仇なのです。

また、源頼朝はわが子千鶴丸伊東祐親に殺されており、その恨みから伊東祐親殺害を指示したのが源頼朝であったとする伊東父子襲撃における源頼朝関与説があり、曽我兄弟は父河津祐泰が亡くなった元凶は源頼朝であると認識していたとされています。

 

ちなみに、北條政子が「曽我兄弟は八重さんの甥、つまり私たちにとっては…」と言いかけたところ、実衣が「遠い親戚ね」と言っていましたが、全く遠くありません。

北條政子江間義時実衣たち兄弟にとって、曽我兄弟は従弟です。なお北條時政(坂東彌十郎)にとって曽我兄弟は妻の甥であるため、義甥にあたり、北條時政は曽我時致の烏帽子親となりました。そこで根強く唱えられているのが北條時政黒幕説です。ただし、北條時政には源頼朝を襲うほどの動機がないことから否定的な見方もあります。今回のドラマでも北條時政は知らずに曽我兄弟に兵を預けてしまった描写が描かれており、謀反の動きには関わっていませんでした。

 

そして出ました!岡崎義実

岡崎義実は、源範頼に連座して懐島景義とともに処罰されており、伏線として謀反に関わっていたテイがドラマで描かれています。

 

 

さて、今回第22回の大詰めはこちらです。安達景盛/弥九郎(渡部澪音)についてです。

北條頼時/泰時/金剛(森優理斗)と喧嘩をしたという件で登場します。

安達景盛には源範頼に嫁いだ姉(渡邉梨香子)がいます。そして異父兄弟に島津忠久がいるとされています。通説では島津忠久安達景盛の兄とされていますが、島津忠久が治承3年(1179年)生まれなので、どうも年齢が合わないのです。

まず源範頼に嫁いだですが、源範頼との間に源範圓源昭という2人の子どもを設けています。もし治承4年(1180年)以降の生まれであるとすると、源範頼が亡くなった建久4年(1193年)にはまだ13歳の女子ということになってしまいます。源範頼が久安6年(1150年)生まれとされていますので、少なくとも島津忠久の姉であると考える方が自然です。

さらに、安達景盛についても、正治元年(1199年)7月に妾を源頼家に奪われるという事件が『吾妻鏡』に記されています(内容は北條氏による曲筆とされていますが年代は参考にできます)。この当時すでに妾を持つほどの身分であったことが分かります。また、建仁3年(1203年)の比企能員の変で早々と比企氏を裏切って北條氏に与しており、異父兄弟の島津忠久が比企氏の親戚として連座を受け所領を没収されているのに対し、安達景盛は北條氏の側近として名を連ね、裏切られた源頼家の恨みは深かったとされています。元久2年(1205年)の畠山重忠の乱でも先陣切って戦っており、牧氏事件後の評議の席に加わるなど幕府政治を動かす主要な御家人の一員となっており、20歳かそこらでこの重役はやや難しいのではと思われます。つまり安達景盛についても島津忠久の兄だったのではないかと考えられます。

島津忠久については惟宗広言が父とする通説がありますが実は年齢的にはやや難しく、『島津国史』『島津氏正統系図』には「源頼朝の側室で、島津忠久は源頼朝の落胤」と記されており、そのため源頼朝より厚遇を受け、地頭に任じられたとされています。家臣の妻に…?と思われるかもしれませんが、実際他にも例がないこともないので、あり得ない話でもありません。

 

建久4年(1193年)5月、源頼朝巻狩りを実施し、万寿(源頼家)を嫡男として御家人に披露しようと考えます。富士の裾野に決まり、北條時政が仕切り役に任じられました(実際に仕切り役だったことも北條時政黒幕説に説得力をもたらしています)。

 

さあ、いろいろと伏線が張られたところで、次はいよいよ曽我兄弟の仇討ちです!!