2022年6月5日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第22回の感想です。
完全ネタバレなので、ご注意ください。
NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。
第22回「義時の生きる道」
なお、キャストの順番は以下の通り。
北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、北條政子(小池栄子)、比奈(堀田真由)、畠山重忠(中川大志)、実衣(宮澤エマ)、大姫(南沙良)、安達盛長(野添義弘)、源範頼(迫田孝也)、工藤祐経(坪倉由幸)、仁田忠常(高岸宏行)、岡崎義実(たかお鷹)、二階堂行政(野仲イサオ)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、九條兼実(田中直樹)、阿野全成(新納慎也)、道(堀内敬子)、土肥実平(阿南健治)、大江広元(栗原英雄)、梶原景時(中村獅童)、曽我五郎(田中俊介)、曽我十郎(田邊和也)、北條泰時/金剛(森優理斗)、鶴丸(佐藤遙灯)、後鳥羽天皇(菊井りひと)、安達景盛/弥九郎(渡部澪音)、千幡(吉川魁理)、比企能員(佐藤二朗)、善児(梶原善)、三浦義澄(佐藤B作)、千葉常胤(岡本信人)、丹後局(鈴木京香)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順で37名です。
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が描かれています。
文治5年(1189年)当時の登場人物の年齢を確認しておきましょう。
建久元年(1190年)11月9日、源頼朝(大泉洋)が上洛し、後白河法皇(西田敏行)と対面します。
九條兼実(田中直樹)とも対面し、九條兼実の娘がすでに後鳥羽天皇(菊井りひと)に入内していることを告げられ、源頼朝も後鳥羽天皇に娘を入内させたいと思っていたので、お互いに牽制し合う姿が見られます。
院に源頼朝が昇殿できるのか、そして帯刀したまま昇殿してよいのか、そもそもこの時点で五位以上の官位(身分)にないのに立烏帽子を着用していてよいのか、時代考証に非常に疑問があります(朝廷の仕来りについて詳しい方ぜひ教えていただきたいです)。
上洛の最中、御家人たちが宿所で祝宴を開いています。
ここで後の伏線として描かれているのが、源範頼(迫田孝也)の宿所に、比企能員(佐藤二朗)、土肥実平(阿南健治)、千葉常胤(岡本信人)、岡崎義実(たかお鷹)、三浦義澄(佐藤B作)ら宿老たちが集結して源範頼擁立ともとれるような描写が描かれています。ただし源範頼自身は比企能員をたしなめる姿があり、源頼朝に代わって棟梁になるなどという気持ちは一切ないことが描かれています。
なお、右近衛大将拝賀の随兵7人は、比企能員、江間義時、小山朝政(中村敦)、和田義盛、梶原景時、土肥実平、畠山重忠です。
建久3年(1192年)3月、日本一の大天狗と称された後白河法皇が崩御します。
12歳になった後鳥羽天皇も登場です。
建久3年(1192年)7月、源頼朝が征夷大将軍に任官します。
筆者鎌倉智士が子どものころは、このときに鎌倉幕府成立、1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府と習ったものです。
阿野全成(新納慎也)と実衣(宮澤エマ)との間に四男の阿野時元が生まれたようです。
ドラマではまるで夫婦のような顔をして並んでいますが、阿野全成には正室が他におり、正室が長男から三男を産んだとされています。実衣は阿野全成にとって妾です(『吾妻鏡』)。
建久3年(1192年)8月、源頼朝と北條政子(小池栄子)との間に次男千幡(源実朝)が生まれました。
実衣が千幡(源実朝)の乳母になっていることから、阿野時元と千幡の生まれた時期が近いのではないかと推測されての描写かと思います。
源頼朝の側女、比奈こと姫の前(堀田真由)、初登場です。源頼朝の妾でしたが、後に江間義時(小栗旬)の妻となります。
比奈は、比企朝宗の娘で、比企尼の孫にあたります。『吾妻鏡』には「源頼朝の大のお気に入りで、並ぶ者のないほど美しく権勢のある女房」と記されています。で、なぜかそんな源頼朝の愛妾に対して1年以上の間ラブレターを送りつづけたのが江間義時です。ドラマでも比奈に「色恋になるとしつこいという噂があり薄気味悪い」と言われていました。ちなみに比奈に対してはしつこい態度は見られませんでしたが、江間義時のストーカーっぷりは八重(新垣結衣)に対して行われたいたことが伏線となっていたことが分かります。
なお『吾妻鏡』では見かねた源頼朝が「絶対離縁しない」という起請文を書かせて江間義時に愛妾を譲ったと記されていますが、ドラマでは妻北條政子怖さに適当に押しつけたように描かれています。
建久3年(1192年)9月25日、比奈は江間義時に嫁ぎ、建久4年(1193年)に北條朝時、建久9年(1198年)に北條重時が生まれていますが、起請文虚しく、建仁3年(1203年)に比企氏と北條氏の対立によって離縁させられてしまいました。
建久4年(1193年)5月、曽我祐成(田邊和也)と曽我時致(田中俊介)兄弟が工藤祐経(坪倉由幸)への仇討ち、そして源頼朝への復讐を企てます。
伏線としては阿野全成が「文官が重宝されているので御家人に取り立てられることはないだろう」という発言がありました。曽我時致も「戦が起きなければ武官は報われない、文官ばかりが出世する構造を築いた頼朝」へ恨みを抱いていました。
工藤祐経が恨みから伊東祐親を殺害しようとしたところ、安元2年(1176年)10月、流れ矢にあたり伊東祐親の長男河津祐泰(山口祥行)が亡くなりました。河津祐泰の遺児こそが曽我兄弟で、曽我兄弟にとって工藤祐泰は親の仇なのです。
また、源頼朝はわが子千鶴丸を伊東祐親に殺されており、その恨みから伊東祐親殺害を指示したのが源頼朝であったとする伊東父子襲撃における源頼朝関与説があり、曽我兄弟は父河津祐泰が亡くなった元凶は源頼朝であると認識していたとされています。
ちなみに、北條政子が「曽我兄弟は八重さんの甥、つまり私たちにとっては…」と言いかけたところ、実衣が「遠い親戚ね」と言っていましたが、全く遠くありません。
北條政子・江間義時・実衣たち兄弟にとって、曽我兄弟は従弟です。なお北條時政(坂東彌十郎)にとって曽我兄弟は妻の甥であるため、義甥にあたり、北條時政は曽我時致の烏帽子親となりました。そこで根強く唱えられているのが北條時政黒幕説です。ただし、北條時政には源頼朝を襲うほどの動機がないことから否定的な見方もあります。今回のドラマでも北條時政は知らずに曽我兄弟に兵を預けてしまった描写が描かれており、謀反の動きには関わっていませんでした。
そして出ました!岡崎義実!
岡崎義実は、源範頼に連座して懐島景義とともに処罰されており、伏線として謀反に関わっていたテイがドラマで描かれています。
さて、今回第22回の大詰めはこちらです。安達景盛/弥九郎(渡部澪音)についてです。
北條頼時/泰時/金剛(森優理斗)と喧嘩をしたという件で登場します。
安達景盛には源範頼に嫁いだ姉常(渡邉梨香子)がいます。そして異父兄弟に島津忠久がいるとされています。通説では島津忠久は安達景盛や常の兄とされていますが、島津忠久が治承3年(1179年)生まれなので、どうも年齢が合わないのです。
まず源範頼に嫁いだ常ですが、源範頼との間に源範圓と源昭という2人の子どもを設けています。もし治承4年(1180年)以降の生まれであるとすると、源範頼が亡くなった建久4年(1193年)にはまだ13歳の女子ということになってしまいます。源範頼が久安6年(1150年)生まれとされていますので、少なくとも常は島津忠久の姉であると考える方が自然です。
さらに、安達景盛についても、正治元年(1199年)7月に妾を源頼家に奪われるという事件が『吾妻鏡』に記されています(内容は北條氏による曲筆とされていますが年代は参考にできます)。この当時すでに妾を持つほどの身分であったことが分かります。また、建仁3年(1203年)の比企能員の変で早々と比企氏を裏切って北條氏に与しており、異父兄弟の島津忠久が比企氏の親戚として連座を受け所領を没収されているのに対し、安達景盛は北條氏の側近として名を連ね、裏切られた源頼家の恨みは深かったとされています。元久2年(1205年)の畠山重忠の乱でも先陣切って戦っており、牧氏事件後の評議の席に加わるなど幕府政治を動かす主要な御家人の一員となっており、20歳かそこらでこの重役はやや難しいのではと思われます。つまり安達景盛についても島津忠久の兄だったのではないかと考えられます。
島津忠久については惟宗広言が父とする通説がありますが実は年齢的にはやや難しく、『島津国史』『島津氏正統系図』には「源頼朝の側室で、島津忠久は源頼朝の落胤」と記されており、そのため源頼朝より厚遇を受け、地頭に任じられたとされています。家臣の妻に…?と思われるかもしれませんが、実際他にも例がないこともないので、あり得ない話でもありません。
建久4年(1193年)5月、源頼朝は巻狩りを実施し、万寿(源頼家)を嫡男として御家人に披露しようと考えます。富士の裾野に決まり、北條時政が仕切り役に任じられました(実際に仕切り役だったことも北條時政黒幕説に説得力をもたらしています)。
さあ、いろいろと伏線が張られたところで、次はいよいよ曽我兄弟の仇討ちです!!