2022年5月15日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第19回の感想です。
完全ネタバレなので、ご注意ください。
NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。
第19回「果たせぬ凱旋」
なお、キャストの順番は以下の通り。
北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、畠山重忠(中川大志)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、岡崎義実(たかお鷹)、平知康(矢柴俊博)、弁慶(佳久創)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、九條兼実(田中直樹)、土肥実平(阿南健治)、三善康信(小林隆)、大江広元(栗原英雄)、三浦義澄(佐藤B作)、梶原景時(中村獅童)、静御前(石橋静河)、里(三浦透子)、藤原泰衡(山本浩司)、藤原国衡(平山祐介)、土佐坊昌俊(村上和成)、大姫(落井実結子)、藤原秀衡(田中泯)、比企能員(佐藤二郎)、文覚(市川猿之助)、源行家(杉本哲太)、丹後局(鈴木京香)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順で34名です。
第1~2回 | 安元元年(1175年) | 伊豆国での源頼朝と八重の騒動 |
第3回 | 治承4年(1180年)5~6月 | 以仁王の挙兵のころ |
第4回 | 治承4年(1180年)8月16~17日 | 山木襲撃事件直前 |
第5回 | 治承4年(1180年)8月17~23日 | 山木襲撃事件後から石橋山合戦まで |
第6回 | 治承4年(1180年)8月23~29日 | 石橋山合戦敗北から安房国へ |
第7回 | 治承4年(1180年)9月2~19日 | 安房国で再挙 |
第8回 | 治承4年(1180年)9月19日~10月10日 | 相模国鎌倉へ入り、北條政子と合流まで |
第9回 | 治承4年(1180年)10月13~21日 | 富士川合戦後の源義経との対面まで |
第10回 | 治承4年(1180年)10月中旬~11月初旬 | 佐竹征伐から帰るまで |
第11回 | 治承4年(1180年)11月~寿永元年(1182年)2月14日 | 伊東祐親の自害まで |
第12回 | 治承5年(1181年)~寿永元年(1182年)11月12日 | 牧宗親の髻を切るまで |
第13回 | 寿永元年(1182年)11月13日~寿永2年(1183年)2月 | 源行家を庇護した木曽義仲が人質を出すまで |
第14回 | 寿永2年(1183年)3~10月 | 木曽義仲討伐のため源義経が鎌倉を発つまで |
第15回 | 寿永2年(1183年)11~12月 | 上総広常が誅殺されるまで |
第16回 | 寿永2年(1183年)12月~寿永3年(1184年)2月 | 一ノ谷の戦いまで |
第17回 | 寿永3年(1184年)2月~元暦元年(1184年)6月 | 一條忠頼や藤内光澄を誅殺するまで |
第18回 | 元暦2年(1185年)1月~3月 | 源義経が鎌倉に入れず京へ戻る |
第19回 | 元暦2年(1185年)8月~12月 | 守護地頭を認めさせるまで |
が描かれています。
元暦2年(1185年)当時の登場人物の年齢を確認しておきましょう。
北條時政 | 保延4年(1138年)生 | 47歳 | ※13人の1人 |
北條政子 | 保元2年(1157年)生 | 28歳 | |
江間義時 | 長寛元年(1163年)生 | 22歳 | ※13人の1人 |
源頼朝 | 久安3年(1147年)生 | 38歳 | |
大姫 | 治承2年(1178年)生 | 7歳 | |
源範頼 | 久安6年(1150年)生 | 35歳 | |
阿野全成 | 仁安3年(1153年)生 | 32歳 | |
源義経 | 平治元年(1159年)生 | 26歳 | |
郷御前(里) | 仁安3年(1168年)生 | 17歳 | |
小野田盛長 | 保延元年(1135年) | 50歳 | ※13人の1人 |
三浦義澄 | 大治2年(1127年) | 58歳 | ※13人の1人 |
三浦義村 | 仁安3年(1168年) | 17歳 | |
和田義盛 | 久安3年(1147年)生 | 38歳 | ※13人の1人 |
梶原景時 | 保延6年(1140年)生 | 45歳 | ※13人の1人 |
土肥実平 | 天永元年(1110年) | 75歳 | |
岡崎義実 | 天永3年(1112年) | 73歳 | |
佐々木秀義 | 天永3年(1112年) | 73歳 | |
工藤祐経 | 久安3年(1147年)生 | 38歳 | |
仁田忠常 | 仁安2年(1167年) | 18歳 | |
千葉常胤 | 永久6年(1118年)生 | 67歳 | |
足立遠元 | 大治5年(1130年)生 | 55歳? | ※13人の1人 |
三善康信 | 保延6年(1140年)生 | 45歳 | ※13人の1人 |
八田知家 | 康治元年(1142年)生 | 43歳 | ※13人の1人 |
比企能員 | 天養2年(1145年)生 | 40歳 | ※13人の1人 |
中原親能 | 康治2年(1143年)生 | 42歳 | ※13人の1人 |
中原広元 | 久安4年(1148年)生 | 37歳 | ※13人の1人 |
工藤行政 | 保延6年(1140年)生 | 45歳? | ※13人の1人 |
文治元年(1185年)6月22日、源頼朝(大泉洋)の怒りを買って鎌倉に入れず、京都に戻っていました。
文治元年(1185年)8月16日、源義経(菅田将暉)が受領、伊予守に補任されます。ドラマでは源頼朝が推挙したとして描いていますが、後白河法皇(西田敏行)の院給分国である伊予守補任は後白河法皇の意向であり、源頼朝が関わっていないという見方もあります。いずれにしても源義経は検非違使と伊予守を兼任することになりますが、本来は兼任することができないことからドラマでも描かれていたように九條兼実(田中直樹)は『玉葉』に「未曽有」と記しています。
文治元年(1185年)8月、源頼朝が源行家(杉本哲太)追討を計ります。
9月、源頼朝は梶原景季(柾木玲弥)を入洛させ、源義経に源行家追討を要請しますが、源義経に断られます。さらに、源義経は平時忠の娘(蕨)を妾にしており、そのことで5月20日に配流が決まっていた平時忠が在京したままになっており、源義経と源頼朝の対立が加速していきます。源頼朝の怒りによって結局9月23日に平時忠は能登国へ配流されますが、平時忠の子平時実は周防国へ配流されるはずが義兄弟となった源義経のもとを離れず、後に源義経と都を落ちています。これを受けて源頼朝は源義経と源行家が結託しているだけでなく、平時実とも結託していると確信し、源頼朝は源義経追討も計ります。ドラマでは静御前(石橋静河)と里(三浦透子)のみが描かれていますが、蕨姫の存在も非常に大きな事態を引き起こしていました。
源頼朝は後白河法皇に依頼して父源義朝の首を探し出してもらい、大江公朝に届けてもらいます。ドラマでは文覚(市川猿之助)が発見して持参したと描かれています。
文治元年(1185年)9月3日、源頼朝は父源義朝の首を南御堂に埋葬し、
10月24日、堂舎完成の落慶供養を行いました。大御堂(勝長寿院)は源義朝の菩提を弔うため前年の元暦元年(1184年)に建立された寺院で、鶴岡八幡宮と永福寺と並び三大寺社に数えられる源氏の菩提寺の性格の濃い寺院です。
10月13日には源頼朝の命により、児玉党30余騎が源義経を襲撃し、
10月17日には土佐坊昌俊(村上和成)ら60余騎が源義経を襲撃しています(堀川夜討)。
ドラマでは10月24日の大御堂(勝長寿院)での供養に源義経を呼び寄せると描かれていますが、この当時、上記したようにすでに源頼朝は源義経追討を実施しており、源頼朝と源義経の関係は完全に悪化していることから考えにくいです。
10月18日、源義経と源行家の要請により、後白河法皇は源頼朝追討の院宣を発します。源行家は四国地頭に、源義経は九州地頭に補任されます。
10月22日、源頼朝追討の院宣が鎌倉に伝わります。
10月29日、源頼朝は自ら鎌倉を出陣し、黄瀬川(伊豆国北條の少し先)まで進軍します。
11月3日、源義経と源行家、そして前述した平時実らは都を落ちます。
11月4日、摂津国で摂津源氏の多田行綱と戦い(河尻合戦)、源義経は多田勢を撃退したものの手勢はわずかとなってしまいました。源義経は緒方氏を頼り摂津国大物浦から九州へ向かおうとしますが、暴風雨で一艘も残らず難破し、九州行きは頓挫します。源義経は吉野に1年ほど潜伏します。平時実は捕らえられ、翌年文治2年(1186年)1月に上総国に配流されました。
源行家も潜伏していましたが、翌年の文治2年(1186年)5月に地元民に密告され、北條時定(北條時政の弟)に捕らえられ、山城国赤井河原で長男源光家、次男源行頼とともに斬首されています。
6月には源有綱も大和国で討ちとられています。
※源有綱は鎌倉智士が最も重要視する人物です。以仁王の令旨を掲げて挙兵したときには源頼朝は源有綱を匿いましたが、木曽義仲(青木崇高)が皇位継承への介入で後白河法皇と不和になったこともあり、源有綱は価値を失っただけでなく、むしろ邪魔な存在になっていました。
源義経との対立の影響は、里の実家、河越氏にも及びます。
11月12日、里の父河越重頼は領地を没収され、後に長男河越重房とともに誅殺されます。河越重頼の娘婿下河辺政義も連座しています。
源義経はドラマ上で「里を連れていくのは比企の娘だからだ、いざというときの人質だ」と言っていましたが、もはや人質の意味を成していませんでした。源頼朝の命によって源義経と婚姻関係を結び源義経の後見人となった河越氏にとってあまりに理不尽な仕打ちであり、後に源頼朝は自らしたことをまるで他人事のように「憐れである」と河越尼(里の母)に河越荘を安堵しています。河越尼は比企尼の娘であり、源頼朝にとって乳兄弟(同じ乳を飲んで育った)にあたりますが、それだけでは河越一族は許されなったのです。
文治元年(1185年)10月20日、鎌倉に問注所が設置され、三善康信(小林隆)が任命されます。三善康信は源頼朝の乳母の妹の子(あるいは乳母の子)であり、源頼朝が流人時代に長年京都の状況を知らせていた功労者の1人であり、源頼朝にとっては親戚といってもいい関係です。なお、問注所は訴訟事務を所管する機関のことです。
11月7日、源義経は検非違使と伊予守を解任されます。
11月25日、源義経と源行家に対し追討の院宣が下されました。
11月28日、北條時政(坂東彌十郎)が京都へ進軍し、守護と地頭の設置を認めさせる文治の勅許が行われます。ドラマでは昇殿してしまっていますが、北條時政は昇殿を許されるような立場にはいません。ましてや武装した状態で昇殿するなどもってのほかです。史実でも北條時政は直接ではなく吉田経房を介して要請しています。また、ナレーションで京都守護としてと描かれていますが、洛中の警護や朝廷と幕府の間の連絡の任であり、ドラマで描かれていたような「とんでもねえお役目だぜ、おっかねえよ~」というようなそこまで重い任務ではなく、北條時政、一條能保、一條高能、土肥実平(阿南健治)、牧国親、五條有範、中原親能(川島潤哉)、里見義直、平賀朝雅、中原季時、伊賀光季、大江親広といった順番で継承されていきます。
なお、守護と地頭を認めさせた文治の勅許は、寿永二年十月宣旨と並び鎌倉幕府成立の重要な画期として位置づけられていますが、いわゆる守護・地頭は鎌倉時代後期の概念であり、この当時はやや性格が異なるという見方があります。また、大江広元の献策であると伝わるものの、『吾妻鏡』の件を鵜呑みにはできないという見方もあります。ただいずれにしてもここまで政治を動かしてきたのは中原広元(栗原英雄)や三善康信、藤原俊兼、藤原邦通らの活躍があったことは間違いないと思われます。