2022年5月1日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第17回の感想です。

完全ネタバレなので、ご注意ください。

 

NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。

 

なお、キャストの順番は以下の通り。

第17回「助命と宿命

北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、畠山重忠(中川大志)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、源範頼(迫田孝也)、工藤祐経(坪倉由幸)、仁田忠常(高岸宏行)、中原親能(川島潤哉)、弁慶(佳久創)、一條忠頼(前原滉)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、武田信義(八嶋智人)、大江広元(栗原英雄)、三浦義澄(佐藤B作)、梶原景時(中村獅童)、木曽義高(市川染五郎)、巴御前(秋元才加)、平知康(矢柴俊博)、静御前(石橋静河)、大姫(落井実結子)、海野幸氏(加部亜門)、藤内光澄(長尾卓磨)、比企能員(佐藤二郎)、丹後局(鈴木京香)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)、一万(大藤瑛史)、箱王(加賀谷光輝)の順で35名です。

 

第1~2回 安元元年(1175年) 伊豆国での源頼朝と八重の騒動
第3回 治承4年(1180年)5~6月 以仁王の挙兵のころ
第4回 治承4年(1180年)8月16~17日 山木襲撃事件直前
第5回 治承4年(1180年)8月17~23日 山木襲撃事件後から石橋山合戦まで
第6回 治承4年(1180年)8月23~29日 石橋山合戦敗北から安房国へ
第7回 治承4年(1180年)9月2~19日 安房国で再挙
第8回 治承4年(1180年)9月19日~10月10日 相模国鎌倉へ入り、北條政子と合流まで
第9回 治承4年(1180年)10月13~21日 富士川合戦後の源義経との対面まで
第10回 治承4年(1180年)10月中旬~11月初旬 佐竹征伐から帰るまで
第11回 治承4年(1180年)11月~寿永元年(1182年)2月14日 伊東祐親の自害まで
第12回 治承5年(1181年)~寿永元年(1182年)11月12日 牧宗親の髻を切るまで
第13回 寿永元年(1182年)11月13日~寿永2年(1183年)2月 源行家を庇護した木曽義仲が人質を出すまで
第14回 寿永2年(1183年)3~10月 木曽義仲討伐のため源義経が鎌倉を発つまで
第15回 寿永2年(1183年)11~12月 上総広常が誅殺されるまで
第16回 寿永2年(1183年)12月~寿永3年(1184年)2月 一ノ谷の戦いまで
第17回 寿永3年(1184年)2月~元暦元年(1184年)8月 源義経が無断任官するまで

が描かれています。

 

寿永3年(1184年)当時の登場人物の年齢を確認しておきましょう。

北條時政 保延4年(1138年)生 46歳 ※13人の1人
北條政子 保元2年(1157年)生 27歳  
江間義時 長寛元年(1163年)生 21歳 ※13人の1人
源頼朝 久安3年(1147年)生 37歳  
大姫 治承2年(1178年)生 6歳  
源範頼 久安6年(1150年)生 34歳  
阿野全成 仁安3年(1153年)生 31歳  
源義経 平治元年(1159年)生 25歳  
郷御前(里) 仁安3年(1168年)生 16歳  
小野田盛長 保延元年(1135年) 49歳 ※13人の1人
三浦義澄 大治2年(1127年) 57歳 ※13人の1人
三浦義村 仁安3年(1168年) 16歳  
和田義盛 久安3年(1147年)生 37歳 ※13人の1人
梶原景時 保延6年(1140年)生 44歳 ※13人の1人
土肥実平 天永元年(1110年) 74歳  
岡崎義実 天永3年(1112年) 72歳  
佐々木秀義 天永3年(1112年) 72歳  
工藤祐経 久安3年(1147年)生 37歳  
仁田忠常 仁安2年(1167年) 17歳  
千葉常胤 永久6年(1118年)生 66歳  
足立遠元 大治5年(1130年)生 54歳? ※13人の1人
三善康信 保延6年(1140年)生 44歳 ※13人の1人
八田知家 康治元年(1142年)生 42歳 ※13人の1人
比企能員 天養2年(1145年)生 39歳 ※13人の1人
中原親能 康治2年(1143年)生 41歳 ※13人の1人
中原広元 久安4年(1148年)生 36歳 ※13人の1人
工藤行政 保延6年(1140年)生 44歳? ※13人の1人
木曽義高 承安3年(1173年)生 11歳  

 

第17回は寿永3年(1183年)2月の一ノ谷合戦で平家軍を破った源義経(菅田将暉)が後白河法皇(西田敏行)から功績を称えられる場面から始まります。鵯越の逆落としについて褒められた源義経に対し、一ノ谷と鵯越は全く別だと言う梶原景時(中村獅童)。源義経は「鵯越の方が響きがいいし、馬で駆け降った方が絵になる、歴史はそうやってつくられていくんだ」とまるで時代考証をうるさく言う人に対してドラマとはこういうものだと三谷幸喜さんからのメッセージのような気がしてなりません。この件はとにかく脚本が素晴らしいですね。まさにその通り!と感嘆いたしました。

 

 

工藤祐経(坪倉由幸)がドラマ上では8年ぶりの登場です。安元元年(1175年)に源頼朝(大泉洋)に伊東祐親(浅野和之)殺害を命じられて以降姿を消していました。実はドラマでは完全に省かれていましたが安元2年(1176年)に工藤祐経伊東祐親の命を狙ったものの討ち漏らし、流れ矢が伊東祐親の長男河津祐泰(山口祥行)にあたり河津祐泰は亡くなりました。河津祐泰には2人の遺児がおり、一万(大藤瑛史)と箱王(加賀谷光輝)です。

一萬丸は後の曽我祐成、箱王は後の曽我時致です。「人殺しー!!」と石を投げつけられていたのはこういった背景があり、この件は曽我兄弟の仇討ちへの伏線となっています。ただ兄を殺された八重が「ご自分が何をしたか分かっておられるはず」と言うだけで済むのが不可解で、それだけの大事を江間義時(小栗旬)が「何をしたんだ?」と知らないのも不自然です。

なお、曽我祐成は承安2年(1172年)生まれなので、このとき11歳。

曽我時致は承安4年(1174年)生まれなので、このとき9歳です。

テロップには工藤祐経八重(新垣結衣)の従兄と記載されていますが、工藤祐経伊東祐親の従弟にあたり、八重にとっては従弟叔父にあたります。つまり八重工藤祐経にとっていとこ姪です。ところが工藤祐経伊東祐親の娘を娶っていたことがあります(離縁させられています)ので、かつては八重義兄だったことがあります。

 

元暦元年(1184年)4月、とうとう木曽義高(市川染五郎)が最期を迎えます。

 

 

 

 

寿永3年(1184年)1月に粟津合戦で討死した木曽義仲(青木崇高)の長男木曽義高は、人質として鎌倉にいたため、「わしは木曽義高にとって父の仇、あれが生きている限り枕を高くして眠れん」と源頼朝によって木曽義高誅殺の命令が下ります。

4月21日、大姫(落井実結子)は密かに木曽義高を逃そうとし、信濃国から木曽義高に随行してきていた海野幸氏(加部亜門)を身代わりとし、木曽義高に女装をさせて鎌倉を脱出させます。ドラマでは北條政子(小池栄子)が中心となって行っており、第1回で北條政子源頼朝を逃したシーンの伏線の回収となります。

海野幸氏は寿永2年(1183年)閏10月1日に水島合戦で討死した木曽義仲軍の総大将の海野幸広の弟で、後に弓馬四天王の1人に数えられる弓馬の達人です。弓馬四天王は海野幸氏望月重隆小笠原長清石和信光の4人です。

海野幸氏望月重隆木曽義高に随行して信濃国から鎌倉に来ていましたが、後に御家人となる祢津宗通など、海野氏・望月氏・祢津氏は滋野三家と称されます。

 

  

 

 

 

 

 

木曽義高逃亡を知った源頼朝堀親家木曽義高を討ち取るよう命じます。

元暦元年(1184年)4月26日、武蔵国の入間河原で木曽義高堀親家に捕らえられ、堀親家の郎党藤内光澄(長尾卓磨)によって討たれました。

ドラマでは生まれ故郷の信濃国に戻るといって逃げていましたが、討たれたのは武蔵国入間川と伝わります。

木曽義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまい、北條政子(小池栄子)は木曽義高を討ったせいだと怒り、6月27日に藤内光澄は晒し首となりました。藤内光澄にとってあまりにも理不尽です。

ドラマでは大姫はまだ病床に伏してはいませんが、おそらく今後伏線として描かれていくものと思われます。

なお、木曽義高の塚(木曽塚)は常楽寺の向かいの木曽免という田畠にありました。現在は常楽寺の裏山に移されて供養塔が建っています


 

 

 

元暦元年(1184年)6月16日、一條忠頼(前原滉)が誅殺されます。

武田信義(八嶋智人)にもう対抗することはしないと起請文を書かせたことで「もう甲斐に攻め込むことはない」と江間義時が警告しますが、実際には甲斐国に攻め込んでいます。

甲斐国の武田一族はそもそもまとまって同一行動を取っておらず、内部分裂を起こしてしまったことで源頼朝にしだいに淘汰されていくことになります。

治承4年(1180年)8月23日の石橋山合戦で、平井義直(平井清隆の義父)は大庭景親軍に従軍して相模国へ攻め込み仁田忠俊(仁田忠常の兄)と戦い討死しています。その後平井氏は御家人として史料に見られますが大きな活躍は確認できません。なお、甲斐国平井郷から相模国の石橋山までおよそ100kmほどあり、進軍に4日ほどかかることから遅くとも8月18日ころには甲斐国平井郷を出兵していたと考えられます。

武田信義の弟(あるいは叔父)の加賀美遠光の妻は三浦義明の長男杉本義宗の娘であり、加賀美遠光和田義盛の義兄弟にあたります。ただし加賀美遠光の長男秋山光朝小笠原長清らは京都に出仕(在京)しており、源頼朝の挙兵には加わりませんでした。

武田信義の子逸見有義も在京して平重盛に仕えており、源頼朝挙兵当初は旗幟を鮮明にしていない者が多かったのです。

『山槐記』によれば8月21日に以仁王の令旨を掲げて武田信義一條忠頼父子が挙兵し平家派の同族と戦っており、武田信義が甲斐国を掌握しきれていなかったことを物語っています。武田信義の挙兵によって在京していた逸見有義の妻子は斬首されています。武田信義は挙兵後は9月には信濃国伊那郡へ出兵し諏訪社と同盟すると、10月には駿河国へ進軍しています。

武田信義の叔父(あるいは弟)の安田義定武田信義とは別行動しており、源頼朝に与していた伊豆国の狩野茂光(米本学仁)の一族である工藤景光工藤行光市川行房らとともに救援に向かっています。甲斐源氏は伊豆国狩野工藤氏と婚姻関係を持つ氏族が多く、その1人が工藤景光であり、源頼朝ではなく狩野茂光救援のために向かったものと思われます。8月24日に大庭景親軍の侍大将俣野景久と駿河国目代橘遠茂と激突し、翌8月25日には駿河国波志田山合戦安田義定俣野景久軍を破ったと『吾妻鏡』に記されていますが誤りで、石橋山合戦で戦っていた俣野景久が翌日に駿河国にいることは不可能であり、10月13日に駿河国目代の橘遠茂橘為茂父子や長田忠致長田景致父子が捕らえられ斬首された端足峠(はしだとうげ)の鉢田合戦のことであると考えられます。この鉢田合戦北條時政(坂東彌十郎)、江間義時土屋宗遠加藤光員加藤景廉らの先導で、武田信義一條忠頼板垣兼信逸見有義安田義定逸見光長河内義長石和信光らが富士北麓から若彦路を通り駿河国井出へ侵攻し合戦となりました。10月16日には平家方の80人の首級が富士川にさらし首となりました。俣野景久は平家方として篠原合戦まで戦いつづけています。

富士川合戦で勝利すると武田信義は駿河国を制圧し、近江源氏と連携を行います(『玉葉』)。この当時は東国では源頼朝武田信義木曽義仲の三者が並立して東国の棟梁として朝廷から見なされていたことが『玉葉』に記されています。

安田義定武田信義とは別行動しており、平家を打ち破って都に進撃する木曽義仲とともに東海道から都に上洛し、その功績によって遠江守に任官しており、完全に独立した立場にいました。一方で加賀美遠光とその次男小笠原長清武田信義の子石和信光源頼朝に接近し、源頼朝を利用して武田一族内での立場を優位にしていきますが、逆に武田一族の力は弱まり、次第に御家人に組み込まれていきます。

養和元年(1181年)に後白河法皇武田信義源頼朝追討使に任じたという風聞が流れ、武田信義は鎌倉に召喚され「子々孫々まで弓引くこと有るまじ」と起請文を書かされています。ドラマでは3年後の元暦元年(1184年)6月に再度起請文を書かされたことになります。

元暦元年(1184年)6月16日、武田信義の子一條忠頼が鎌倉に招かれて宴席で誅殺されました。この前後には木曽義高残党討伐という名目で源頼朝は甲斐国や信濃国に出兵しており、何だかの関係性が示唆されます。ドラマでもやはり木曽義高との内通を疑われて一條忠頼は誅殺されたと描かれています。さらに一條忠頼の次男甘利忠行も翌元暦2年(1185年)に常陸国に配流されて後誅殺されています。

一條忠頼死後は弟の板垣兼信が武田氏の時期棟梁と目されていましたが、あくまで源頼朝とは同盟関係であると認識していた板垣兼信は平家追討にあって土肥実平の配下に加わることに不満を持ち、源頼朝に訴えたものの「実平優位である」と退けられています。源頼朝からすれば板垣兼信はもはや御家人の1人にすぎないと認識していたのです。ドラマでは武田信義の「頼朝を一度も主人と思ったことはない」というセリフで描かれています。板垣兼信は建久元年(1190年)に勅命違反を問われて隠岐国へ配流され失脚しています。

一條忠頼板垣兼信の弟の逸見有義は在京しており、高倉天皇中宮の侍長を務め、左兵衛尉に任官し平重盛に仕えていました。富士川合戦のころには父武田信義軍に合流しており、治承4年(1180年)12月24日に妻子が都で殺害され梟首されています。正治2年(1200年)に梶原景時と同心していると弟石和信光に嫌疑をかけられ没落。以後石和信光武田信光と統一して記されるようになることから武田氏棟梁の地位が石和信光に移ったと考えられます。

逸見有義と同じように平家に仕えていた秋山光朝(加賀美遠光の長男)は、木曽義仲にも仕えたとされ、源義経の指揮下に加わり屋島合戦壇ノ浦合戦など平家追討で活躍したものの、平重盛の娘婿となっており、文治元年(1185年)に謀反の罪で誅殺されています。一方でその父加賀美遠光は文治元年(1185年)に源頼朝によって推挙され信濃守に任官しており、娘大弐局は文治2年(1188年)以後は源頼家源実朝の養育係となって女房の筆頭格にまでなります。

 

以上のように、武田一族の内部分裂が武田一族の弱体化を招き、源頼朝の御家人に成り下がっていくのでした。

 

 

元暦元年(1184年)6月5日、源頼朝の推挙のあった平頼盛平光盛平保業一條能保源範頼(迫田孝也)、太田広綱大内義信らが任官されました。しかし源義経源頼朝の推挙がなくこのときは任官から洩れていました。

 

8月6日、源義経源頼朝の推挙なく無断で検非違使左衛門少尉に任ぜられます。8月17日に鎌倉に届いた報告によれば、無断任官について源義経は「自分が望んだわけではないが、後白河法皇に当然の褒美であると言われ、断ることはできなかった」と弁明していますが、無断で任官したことで源義経源頼朝と対立することになります。ドラマでは無断任官についてあまり強調視されていませんでしたが、源頼朝からすれば自分の家臣が無断で勝手に任官することは許されることではありません

9月15日には源義経昇殿を許され、9月18日には従五位下へ昇進しています。

 

御家人のなかには源義経と同じように無断任官した者がおり、源頼朝の激怒を買っています。

元暦2年(1185年)4月15日以降、無断で任官した者について源頼朝は墨俣川より東へ入ることを禁じ、これを破った者は本領を没収し処罰する命令書を発しています。兵衛尉義廉佐藤忠信師岡重経渋谷重助小川馬允後藤基清波多野有経酒匂朝景酒匂景貞梶原景高中村時経海老名季綱本間能忠豊田義幹兵衛尉政綱足利忠綱平子有長平山季重梶原景季首藤重俊宮内丞舒国首藤経俊八田知家小山朝政ら24名です。1人1人にあてた罵詈雑言は「ハゲのくせに」とか、なかなかユーモアがあって笑えます。

 

 

元暦元年(1184年)9月14日、源頼朝の命により河越重頼の娘(三浦透子)が在京していた源義経の許に嫁ぎます。河越重頼の妻つまりの母である河越尼比企能員(佐藤二朗)の妻(堀内敬子)とともに源頼朝の長男万寿(源頼家)の乳母になっています。

河越重頼河越重房の父子は源義経木曽義仲追討に従軍しており、後白河法皇の御所にも源義経とともに参院しています。また源義経が検非違使に無断任官した折にも、河越重頼の弟師岡重経も随行して無断任官しています。このように武蔵国の有力者が源義経の最大のスポンサーになっていったのは源頼朝による計らいでしたが、源義経の無断任官はその恩を仇で返す行いであり、源頼朝の怒りを買う十分な理由でした。