2022年3月27日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第12回の感想です。

完全ネタバレなので、ご注意ください。

 

NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。

 

なお、キャストの順番は以下の通り。

第12回「亀の前事件

北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、亀(江口のりこ)、畠山重忠(中川大志)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、源範頼(迫田孝也)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、牧宗親(山崎一)、道(堀内敬子)、千葉常胤(岡本信人)、大江広元(栗原英雄)、梶原景時(中村獅童)、藤原行政(野仲イサオ)、中原親能(川島潤哉)、足立遠元(大野泰広)、弁慶(佳久創)、小山朝政(中村敦)、大姫(落井実結子)、源頼家(丸山蒼來/田代瑞希)、上総広常(佐藤浩二)、比企能員(佐藤二郎)、比企尼(草笛光子)、源行家(杉本哲太)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)の順で、31名です。

 

第1~2回 安元元年(1175年) 伊豆国での源頼朝と八重の騒動
第3回 治承4年(1180年)5~6月 以仁王の挙兵のころ
第4回 治承4年(1180年)8月16~17日 山木襲撃事件直前
第5回 治承4年(1180年)8月17~23日 山木襲撃事件後から石橋山合戦まで
第6回 治承4年(1180年)8月23~29日 石橋山合戦敗北から安房国へ
第7回 治承4年(1180年)9月2~19日 安房国で再挙
第8回 治承4年(1180年)9月19日~10月10日 武蔵国から相模国鎌倉へ入り、北條政子と合流まで
第9回 治承4年(1180年)10月13~21日 富士川合戦後の源義経との対面まで
第10回 治承4年(1180年)10月中旬~11月初旬 佐竹征伐から帰るまで
第11回 治承4年(1180年)11月~寿永元年(1182年)2月14日 伊東祐親の自害まで

が描かれています。

 

治承4年(1180年)当時の登場人物の年齢を再確認しておきましょう。

北條時政 保延4年(1138年)生 42歳 ※13人の1人
北條政子 保元2年(1157年)生 23歳  
北條義時 長寛元年(1163年)生 17歳 ※13人の1人
源頼朝 久安3年(1147年)生 33歳  
大姫 治承2年(1178年)生 2歳  
源範頼 久安6年(1150年)生 30歳  
阿野全成 仁安3年(1153年)生 27歳  
義円 久寿2年(1155年)生 25歳  
源義経 平治元年(1159年)生 21歳  
小野田盛長 保延元年(1135年) 45歳 ※13人の1人
三浦義澄 大治2年(1127年) 53歳 ※13人の1人
三浦義村 仁安3年(1168年) 12歳  
和田義盛 久安3年(1147年)生 33歳 ※13人の1人
伊東祐親 元永2年(1119年) 61歳  
平清盛 永久6年(1118年)生 62歳  
大庭景親 保延6年(1140年)生 40歳  
梶原景時 保延6年(1140年)生 40歳 ※13人の1人
土肥実平 天永元年(1110年) 70歳  
岡崎義実 天永3年(1112年) 68歳  
佐々木秀義 天永3年(1112年) 68歳  
工藤茂光 天仁3年(1110年) 70歳?  
仁田忠常 仁安2年(1167年) 13歳  
上総広常 保安元年(1120年) 60歳  
千葉常胤 永久6年(1118年)生 62歳  
足立遠元 大治5年(1130年)生 50歳? ※13人の1人
三善康信 保延6年(1140年)生 40歳 ※13人の1人
八田知家 康治元年(1142年)生 38歳 ※13人の1人
比企能員 天養2年(1145年)生 35歳 ※13人の1人
中原親能 康治2年(1143年)生 37歳 ※13人の1人
中原広元 久安4年(1148年)生 32歳 ※13人の1人
工藤行政 保延6年(1140年)生 40歳? ※13人の1人

 

伊東祐親(浅野和之)は自害ではなく殺されたのだと確信する八重(新垣結衣)。伊東祐親が自害したのは寿永元年(1182年)2月14日のことなのですが、この件は治承5年(1181年)の話として描かれており、またまた大河ドラマあるあるですが時系列がバラバラです。

 

実衣(宮澤エマ)と阿野全成(新納慎也)の婚儀の話になりますが、『吾妻鏡』では実衣こと阿波局阿野全成の妾と記されており、この後阿野全成の四男阿野時元を産みます。つまり阿野全成の長男(阿野頼保)次男(阿野頼高)三男(阿野頼全)は正室の子もしくは他の妻の子であり、少なくとも実衣の子ではありません。実衣阿野全成の側室ではなくというところが、亀の前事件とリンクしていて実に面白いです。ドラマ上で阿野全成は「お前も見習えと(源頼朝に)言われたが、私はそんなつもりはない」と言いつつ、本当は阿野全成もばっちり兄を見習って妾をつくっていたことになります。

ちなみに、阿野全成については、源頼朝挙兵を聞いて駆けつけ、治承4年(1180年)8月26日に佐々木定綱兄弟らに相模国高座郡渋谷荘に匿われ、10月1日下総国鷺沼で源頼朝と対面して以降、源頼朝が生きている間は『吾妻鏡』に阿野全成本人は一切登場しないため(名前は2回見確認できますが)、人物像が全く不明なので、ドラマの登場人物としては実に描きやすい人物です。案の定、当初ドラマでは阿野全成北條義時(小栗旬)と八重の行く末を占い「相性がよくないと出たので結ばれても長くは続かない、振られて正解だ」と話して北條義時を憤慨させたシーンがあったようですがカットされています。この件だけでなく他にもカットされているシーンはいっぱいあるのでガイドブックを読み込んでどこが削られたのかを調べてみるのも面白いかもしれません。

 

北條義時は、江間荘を与えられ今後は江間義時と称するという件があります。『吾妻鏡』で「江間四郎」と確認できるのは養和元年(1181年)4月に、北條義時源頼朝の寝所を警護する11人「寝所近辺祇候衆」の筆頭(親衛隊長)に選ばれ、源頼朝から厚い信頼を得て「家子専一」という側近の地位を与えられた件になります。なお、「寝所近辺祇候衆」は、江間義時下河辺行平結城朝光和田義茂梶原景季大見実政榛谷重朝葛西清重佐原義連千葉胤正八田知重です。

 

北條氏の家督は誰が継ぐのかという話になり、りく(宮沢りえ)が「自分が男子を産めばその子が後継ぎになる」と言います。ただ、この当時は家制度が確立しておらず、親兄弟親族全員別の名字を名乗っている(全員別の土地に住んでいる)ことも珍しくありません。長男だから同じ名字(親の土地)を継ぐとも限らない時代です。いずれにしてもこのりくの発言から、北條時房りくの子ではないことが分かります。ちなみに第1回で北條時房は登場していました。北條時房りくの前妻の子であり、北條義時の異母弟にあたる設定のようです。

※写真は第1回。北條政子実衣の間に見える赤子が北條時房です。

 

比企尼(草笛光子)がいよいよ源頼朝(大泉洋)と対面です。

源頼朝比企尼の20年にもわたる無償の仕送りに感謝し、比企尼こそが最大の功労者であると言ったともされており、このことが比企能員(佐藤二郎)が乳父に選ばれた最大の理由でもあると考えられます。

 

中原親能(川島潤哉)、大江広元(栗原英雄)、藤原行政(野仲イサオ)が登場します。三善康信(小林隆)の推挙により長年朝廷に仕え政に精通していた3人が京都から鎌倉に下向してきたと紹介されますが、実際には三善康信の推挙ではなく源頼朝の母由良御前の親族を呼び寄せたというのが妥当で、しかも中原兄弟については比較的下級の貴族とされています。

中原親能中原広元源頼朝の母方の従兄弟にあたります。中原兄弟については父親が異なるという説もあるものの、血を分けた兄弟というのが現在の定説です。また工藤行政源頼朝の母由良御前の従弟にあたり、源頼朝にとっては従伯父にあたります。つまり3人とも源頼朝と血のつながった親族ということです。

なお、中原広元大江広元として登場していますが、大江姓を称するのは建保4年(1216年)のことであり、このころはまだ大江姓を称していません。

 

 

産養つまり出産後の3日、5日、7日、9日目の夜を祝す(現在はお七夜の祝い)話になります。お祝いを縁起のよい奇数日や奇数年(中国の風習)に行うのは、七五三とも共通しています。七五三についても、3歳、5歳、7歳にお祝いを行います。かつては7歳までは神の子といわれており、7歳まで生き残る子どもは決して多くはない時代で、幼い子どもが夭折することを「神が連れて帰ってしまった」と考えていたのです。平均寿命が短かった理由は子どもが育たなかったからでもあります。

ドラマ上では三夜を小山朝政(中村敦)、五夜を上総広常(佐藤浩市)、七夜を千葉常胤(岡本信人)、九夜を北條時政(坂東彌十郎)が担うことになります。小山朝政小山政光の子であり、小山政光は後妻として寒河尼(源頼朝の乳母)を迎えており、寒河尼にとって小山朝政は義理の子になります。なお、源頼朝の乳母である寒河尼は、治承4年(1180年)10月2日に小山政光との子小山朝光と弟八田知家源頼朝隅田川の陣営に参上させ、12歳小山朝光の元服の儀を源頼朝が烏帽子親となって行っています。小山朝光小山朝政にとって異母弟にあたり、源頼朝にとっては乳母の親族ということになります。

 

引目役(蟇目)に上総広常が選ばれます。引目役は鏑矢を射て、音で魔除けを行う儀のことです。ただドラマ上では弓の弦を鳴らして災いを祓う儀である鳴弦の儀が行われていました。厳密には異なるように思いますが、どうなのでしょうか。

 

安産祈願のため鶴岡八幡宮に神馬を奉納するという話があります。馬を神社に奉納することは当時はよくあって、現在でも名残で絵馬があります。

ただ、この件は実際は大工の馬事件というもので、北條政子(小池栄子)の安産祈願とは全く別の話、まだ北條政子が懐妊する前の話です。

養和元年(1181年)7月20日、鶴岡八幡宮社殿の上棟式(骨組の棟上げが終わったことを祝すとともに、工事が無事に終わることを祈る儀式)で、大工に褒美として馬を与える話です。馬を引くことを命じられた源義経(菅田将暉)は御家人たちと自分の身分が合わない、要するに御家人と一緒にするな!と一旦は断ったものの(ドラマでも「私が馬引き~!?」と嫌がって、さらに「ウマの扱いがウマくない」なんて親父ギャグまで言っていましたが)、怖くなって2回も引いたという件です。1回は畠山重忠(中川大志)と引き、2回は佐貫広綱と引きました。他にも土肥実平(阿南健治)、工藤景光仁田忠常(高岸宏行)、佐野忠家大見実政らが引きました。なので実際は神馬1頭というわけではなかったようです。

 

 

 

 

北條政子が出産前に比企能員の館(現在の妙本寺境内)に移ることになります。災難除けの懸守がステキですね!「母上!!」と寂しそうに駆け寄る大姫(落井実結子)は4歳…4歳にしては大きすぎないか???

寿永元年(1182年)8月12日、北條政子は源頼朝を出産します。

 

源頼朝(江口のりこ)に館を与えて密会を重ねていたという件になりますが、実際には館を与えていたわけではなく(一応外聞を憚っての館は遠くに構えてはいたが)、寿永元年(1182年)6月には中原光家の小坪の邸宅に預けられており、8月12日には伏見広綱の飯島の邸宅に預けられていることが『吾妻鏡』に記されており、その都度その都度会う場所を近場で変えていたようです。「(源頼朝の)世話は心配しないで」と言っているようには侍女であり、実は『吾妻鏡』には伊豆国で流人だった時代から侍女であるは寵愛されていたことが記されています。

ドラマでは安房国の漁師権三(竹内まなぶ)の妻でしたが、源頼朝の寵愛を受けると「ついでに夫も殺して」と言います。このセリフだけみると袈裟御前を思い浮かべてしまいましたが性格は全く異なりますね。

 

 

りく北條政子に告げ口したところから亀の前事件へと発展します。りくが「後妻(うわなり)打ちで仕返ししましょう」と言っていますが、北條政子が「前妻ってやめてください」と言っているようにそもそも意味合いが異なります。後妻打ちではなくただの報復です。

寿永元年(1182年)11月10日、を預かっていた伏見広綱の館がりくの兄牧宗親によって破壊されました。伏見広綱とともに大多和義久の鐙摺の邸宅に逃れていました。ドラマ上では北條義時三浦義村が救出に行って上総広常の館に匿ってもらっていました。

 

11月12日、源頼朝は激怒し、牧宗親の髻を自ら切ったとされています。

ドラマ上では源頼朝梶原景時に命じて切らせて恥辱を与えました。

牧宗親は駿河国駿河郡大岡牧を本拠とする豪族。平親盛(平清盛の異母弟)に仕えます。娘(りく)は北條時政の後妻となり、りくの兄大岡時親北條時政の娘婿となっています(『愚管抄』)。ただしりく(牧の方)は『吾妻鏡』では牧宗親の妹としており、ドラマでは『吾妻鏡』を採用しています。

寿永元年(1182年)11月10日、北條政子の命で源頼朝の愛妾亀の前が匿われていた伏見広綱邸を破壊したことで、2日後に源頼朝に髻を斬られる恥辱を受け、北條時政は抗議として一族を引き連れて伊豆国へ籠居してしまいました。その後は御家人に列しています。

 

中原広元が「鎌倉は安泰」と言いつつ「ひとつだけ懸念がある」と顔を曇らせました。

これは上総広常の存在のことを懸念に思っているという、上総広常暗殺への伏線として描かれているのでしょう。

ちなみに、上総広常は字も書けないという描写がありますが、上総広常ほどの者が字を書けないとはまたかなり上総広常の評価を陥れていますね。