2022年3月13日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第10回の感想です。

完全ネタバレなので、ご注意ください。

 

NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。

 

なお、キャストの順番は以下の通り。

第10回「根拠なき自信」

北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、亀(江口のりこ)、畠山重忠(中川大志)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、源範頼(迫田孝也)、義円(成河)、伊東祐清(竹財輝之助)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、千葉常胤(岡本信人)、土肥実平(阿南健治)、三浦義澄(佐藤B作)、平宗盛(小泉孝太郎)、文覚(市川猿之助)、牧宗親(山﨑一)、首藤経俊(山口馬木也)、平知康(矢柴俊博)、藤原泰衡(山本浩司)、藤原国衡(平山祐介)、足立遠元(大野泰広)、佐竹義政(平田広明)、平清盛(松平健)、上総広常(佐藤浩二)、大庭景親(國村隼)、藤原秀衡(田中泯)、丹後局(鈴木京香)、伊東祐親(浅野和之)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順で、36名です。

 

第1~2回 安元元年(1175年) 伊豆国での源頼朝と八重の騒動
第3回 治承4年(1180年)5~6月 以仁王の挙兵のころ
第4回 治承4年(1180年)8月16~17日 山木襲撃事件直前
第5回 治承4年(1180年)8月17~23日 山木襲撃事件後から石橋山合戦まで
第6回 治承4年(1180年)8月23~29日 石橋山合戦敗北から安房国へ
第7回 治承4年(1180年)9月2~19日 安房国で再挙
第8回 治承4年(1180年)9月19日~10月10日 武蔵国から相模国鎌倉へ入り、北條政子と合流まで
第9回 治承4年(1180年)10月13~21日 富士川合戦後の源義経との対面まで
第10回 治承4年(1180年)10月中旬~11月初旬 佐竹征伐から帰るまで

が描かれています。

 

治承4年(1180年)当時の登場人物の年齢を再確認しておきましょう。

北條時政 保延4年(1138年)生 42歳 ※13人の1人
北條政子 保元2年(1157年)生 23歳  
北條義時 長寛元年(1163年)生 17歳 ※13人の1人
源頼朝 久安3年(1147年)生 33歳  
大姫 治承2年(1178年)生 2歳  
源範頼 久安6年(1150年)生 30歳  
阿野全成 仁安3年(1153年)生 27歳  
義円 久寿2年(1155年)生 25歳  
源義経 平治元年(1159年)生 21歳  
小野田盛長 保延元年(1135年) 45歳 ※13人の1人
三浦義澄 大治2年(1127年) 53歳 ※13人の1人
三浦義村 仁安3年(1168年) 12歳  
和田義盛 久安3年(1147年)生 33歳 ※13人の1人
伊東祐親 元永2年(1119年) 61歳  
平清盛 永久6年(1118年)生 62歳  
大庭景親 保延6年(1140年)生 40歳  
梶原景時 保延6年(1140年)生 40歳 ※13人の1人
土肥実平 天永元年(1110年) 70歳  
岡崎義実 天永3年(1112年) 68歳  
佐々木秀義 天永3年(1112年) 68歳  
工藤茂光 天仁3年(1110年) 70歳?  
仁田忠常 仁安2年(1167年) 13歳  
上総広常 保安元年(1120年) 60歳  
千葉常胤 永久6年(1118年)生 62歳  
足立遠元 大治5年(1130年)生 50歳? ※13人の1人
三善康信 保延6年(1140年)生 40歳 ※13人の1人
八田知家 康治元年(1142年)生 38歳 ※13人の1人
比企能員 天養2年(1145年)生 35歳 ※13人の1人
中原親能 康治2年(1143年)生 37歳 ※13人の1人
中原広元 久安4年(1148年)生 32歳 ※13人の1人
工藤行政 保延6年(1140年)生 40歳? ※13人の1人

 

源義経(菅田将暉)が「御館(藤原秀衡)に文を送り、3,000の兵をお願いいたしました」と「お願い」の文字を強調した辺りやその他の文言から、完全に源義経源頼朝(大泉洋)のことを見下してることが伝わってきます。この時点では周りは苦笑いしてやりすごしていますが、この数年後にはとうとう耐えられなくなってくるという伏線でしょう。

 

9月4日に発せられた源頼朝追討の官符が、ようやく平泉に到着したようで、藤原秀衡(田中泯)が双方に承知したと返事をする意向であると描かれています。

 

11月、平維盛(濱正悟)がわずか10騎の兵で京都へ逃げかえってきました。前回第9回「決戦前夜」で10月20日夜に富士川合戦で大敗して以降、京都へ向かって逃走していたことになります。『平家物語』では70,000騎とされていた官軍ですが、実際には4,000騎ほどだったとされています。平宗盛(小泉孝太郎)が「飢饉で兵糧が尽きて」と言っているように、兵糧が不足していて士気は落ちており逃亡する者なども多く、富士川で対峙したころには2,000騎程度だったとされています。

 

後白河法皇(西田敏行)が祈祷によって平清盛(松平健)を支えると言いつつ、祈祷によってある者を呪い殺すための呪いを行うために文覚(市川猿之助)を呼びつけます。まあ、流れからすると平清盛を呪い殺すための呪いでしょうけど…あれ?でもちょっと待てよ。

文覚は承安3年(1173年)に後白河法皇に強訴したために伊豆国へ罪人として配流されている身です。文覚を流罪としたのは後白河法皇自身です。この件が正しければ後白河法皇は流人の文覚の罪を許したということなのでしょうか。

 

 

平家の坂東支配の大幹部として名を轟かせた大庭景親」とナレーションが入ります。大庭景親(國村隼)は上総広常(佐藤浩市)の刀を見るなり観念して胡坐から正坐に座り直し、斬首の準備を自ら行います。あえてケラケラと大庭景親を笑わせていたのは、笑い声がなくなったときがつまり斬首されたそのときであると、シーンを際立たせるためかと思います。

まず、ナレーションについては正当に評価していただきとても嬉しいです。大庭景親は「東国の御後見」として坂東の実質的な支配を任され、鎮西の原田種直、四国の粟田成良(田口成良)らとともに地方にあって平清盛を支えた人物です。ただ斬首したのは大庭景親の兄懐島景義で、源頼朝から助命嘆願をするか問われると懐島景義源頼朝の裁断に全て任せ助命嘆願はしませんでした。ただし斬首が決まると「他人の手にかかるよりは」と自ら処刑者を担うと申し出て固瀬河原で弟大庭景親を斬首しました。

 

 

ドラマ上では斬首された地は固瀬河原ではなく屋敷の軒先のようでしたが、さらし首されたのは固瀬河原だったようです。

 

この件では、上総広常源頼朝武衛と呼んでいる場面、源頼朝の乳母山内尼首藤経俊(山口馬木也)の助命嘆願を行ったこと、このとき上総介ではないのに上総介と呼ばれる上総広常、といった気になるシーンが多かったです。

なお、三浦義澄(佐藤B作)が大庭景親のことを「悪い男ではなかった」といい人振ってを言っていますが、鎌倉党と三浦党は因縁の関係で、三浦義澄にとってみれば長年所領争いで戦ってきた宿敵を討ち果たした瞬間だったはずです。

前回北條時政(坂東彌十郎)が「武士にとって一番大事なのは所領と一族、それらを守るために死に物狂いで戦う」と力説していましたが、今回は北條も三浦も中村も上総も千葉も、それぞれが自分たちの所領(縄張り)を守るだけでなく拡大させるために源頼朝を担ぎ上げ、その結果平家方で戦った武士たちの所領を奪い取り、恩賞として植民地である鎌倉をみんなに分け与えられたことを忘れてはなりません。

 

騙されたと知って悔しがる伊東祐親(浅野和之)と、バカみたいにペラペラとおしゃべりしている伊東祐清(竹財輝之助)

この件は、いずれ伊東祐親が自害することへの伏線となっているように思います。

伊東祐清はかつて源頼朝の命を救ったことがあったため許されますが、伊東祐清伊東祐親とともに自害したとも、平家方として戦いつづけて戦死したとも言われています。さて今後この親子はどのように描かれて死んでいくのでしょうか。今回の大河ドラマでは脇役たちの死に方があまりに酷いので、もう少し尊厳ある死に方をさせてあげてほしいです。

ちなみに、三浦義村(山本耕史)に「あんた、何でもしゃべればいいってもんじゃない」と一喝された伊東祐清ですが、伊東祐清三浦義村の伯父です。いくら囚われの身であっても伯父さんに対して「あんた」呼ばわりは失礼な12歳です。

 

さらに三浦義村八重(新垣結衣)を口説いていい寄っていますが、三浦義村にとって八重は伯母です。全くおませな12歳です。

 

佐竹征伐の前とはいえ、なぜ弓に弦が張ってあるのか意味不明です。

訓練をしているようにも見えませんし、戦の準備としてなら遠征ですから、戦の直前で張らないとさすがに弦が切れてしまいます。

なお、佐竹征伐には三浦義村は出兵しなかったという件がありました。腐った草餅を食べて腹を下したからだとのこと。あれだけ固く干された餅なら腐っているとは思えないのですが、この草餅というのがなかなか面白くて、茹でたヨモギの葉やゴギョウなどを混ぜてついた餅で、葉の香りには邪気を祓う力があるとされており、宮中行事の一つとして上巳の節句で疫病除けに草餅を食べる風習となりました。いわゆる菱餅というやつの起源です。

赤い餅は先祖を尊び厄を祓うとされています。解毒作用のあるクチナシの実で赤味をつけて健康を祝っています(桃の花を表現しています)。

白い餅は清浄を表しています。また残雪を模しているともされています。

緑の餅は古くはハハコグサ(ゴギョウ)の草餅でしたが、増血効果のあるヨモギが使われるようになっていきました。春先に芽吹くヨモギの新芽によって穢れを祓うとされています。宮中行事では縁起を担いで形の餅にしていますがドラマ上では楕円の餅になっていました。

 

また、矢開き(儀式)では、赤、黒、白の三色の餅(矢口餅)をつくり武運を祈って食す風習があります。『吾妻鏡』でも富士の巻狩り源頼家12歳の初めての狩猟での獲物獲得を祝う儀式が行われた件が記されています。

 

 

ドライフルーツ、食器など当時の食べ物や生活用品が気になります。

 

 

りく(宮沢りえ)の兄牧宗親(山﨑一)が登場です。このドラマでは牧宗親は都人で筆も立つことから源頼朝に仕えさせようとりくが呼び寄せていました。ただこの時期には源頼朝の右筆である藤原邦通もいますし、いずれ文官として中原広元三善康信が加わるのでこのポジションでの仕官についてはちょっと疑問があります。そもそも牧宗親は本当に都人なのでしょうか。

 

やっと鎌倉殿の13人の1人、足立遠元(大野泰広)の登場です。

13人のなかでは三浦義澄と並ぶ年長(この当時は50歳ぐらい)ですが、どうやら今回のドラマでは若い人として描くようです。

足立遠元は武蔵国足立郡を本拠とする藤原氏の一族。小野田盛長の甥という説もありますが、血縁関係はないという説もあります。平治元年(1159年)の平治の乱源義朝に従い「源義平十七騎」の1人として奮戦しました。治承4年(1180年)10月2日に源頼朝が下総国から武蔵国に入ると陣に加わり配下となりました。

 

 

 

源頼朝のもとに、血を分けた4人の兄弟たちが集います。源頼朝(大泉洋)33歳、源範頼(迫田孝也)30歳、阿野全成(新納慎也)27歳、義円(成河)25歳、源義経(菅田将暉)21歳です。この5人が一時的にも一斉に揃ったのはこれが最初で最後の場面になるかもしれませんね。

 

八重源頼朝の膳を運ぶことになり(の悪巧みで)、源頼朝(江口のりこ)の逢引場面に八重が遭遇します。北條政子(小池栄子)、りくの3人の女性が絡む「亀の前襲撃事件」への伏線がドラマ上であちこちに散りばめられているように感じます。

 

 

 

 

和田義盛(横田栄司)が捕まえてきたツグミを、三浦義澄がヒヨドリと間違えていましたが、鵯越の逆落としの伏線ですね。

今回の佐竹征伐では源義経の奇策が実りませんでしたが、これからの大活躍が大いに予想されるところです。

 

さて、クライマックスですが、軍議において上総広常源義経に対して「身勝手な振る舞いが全軍を総崩れに追いやることもある」と叱責しておきながら上総広常自ら身勝手な振る舞いをしてしまうというオチへ。上総広常をどうしても『吾妻鏡』寄りの人物に描いていきたいようで、残念でなりませんが、致し方ありません。

それにしても平田広明さん演じる佐竹義政、秒殺されてしまいましたが、もっとしゃべってほしかったなあ、残念。

 

10月27日、源頼朝が常陸国に向けて出兵。

11月4日、鎌倉を発って8日後、常陸国府に入り軍議を開きます。上総広常佐竹義政を矢立橋に誘い出し誅殺。

11月5日、革島義季源頼朝に内通し、佐竹秀義が守っていた難攻不落の金砂城が陥落。佐竹秀義は逃亡。

11月7日、源頼朝は常陸国府で叔父の志田義広新宮行家らと対面。彼らが後に木曽義仲のもとに走ったことで源頼朝木曽義仲の対立へと発展していきます。

 

金砂城の戦いは、佐竹義宗によって強奪された相馬御厨、片岡常春(常陸国鹿島郡片岡を本拠)によって盤踞されていた下総国香取郡などに、圧迫されていた上総広常千葉常胤らの利害が一致して所領回復のために戦を仕掛け、上総広常と婚姻関係のある三浦義澄が加担して平家方の豪族を房総半島から追い出したという背景があります。源頼朝はその所領争いに担ぎ上げられていただけなのです。

ただ、この戦いで源頼朝は佐竹氏を屈服させたわけではなく、この後も奥州合戦直前までは佐竹氏は抵抗をつづけていたことが明らかとなっています。

 

それにしても当時こんな階段あったのでしょうか?