2022年2月13日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第6回の感想です。

完全ネタバレなので、ご注意ください。

 

NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。

 

 

 

 

 

 

なお、キャストの順番は以下の通り。

第6回

北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、北條政子(小池栄子)、畠山重忠(中川大志)、北條宗時(片岡愛之助)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、伊東祐清(竹財輝之助)、仁田忠常(高岸宏行)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、武田信義(八嶋智人)、道(堀内敬子)、土肥実平(阿南健治)、三浦義澄(佐藤B作)、梶原景時(中村獅童)、首藤経俊(山口馬木也)、岡崎義実(たかお鷹)、佐々木秀義(康すおん)、文陽坊覚淵(諏訪太朗)、安西景益(猪野学)、千鶴丸(太田恵晴)、大姫(難波ありさ)、上総広常(佐藤浩二)、大庭景親(國村隼)、比企能員(佐藤二郎)、比企尼(草笛光子)、伊東祐親(浅野和之)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順です。

 

第1回と第2回は安元元年(1175年)、第3回はその5年後の治承4年(1180年)5~6月、第4回は主に治承4年(1180年)8月16~17日、第5回は治承4年(1180年)8月17~23日、第6回は治承4年(1180年)8月23~29日が描かれています。

 

治承4年(1180年)当時の登場人物の年齢を再確認しておきましょう。

北條時政 保延4年(1138年)生 42歳
北條政子 保元2年(1157年)生 23歳
北條宗時 不明 21歳?
北條義時 長寛元年(1163年)生 17歳
源頼朝 久安3年(1147年)生 33歳
小野田盛長 保延元年(1135年) 45歳
三浦義澄 大治2年(1127年) 53歳
三浦義村 仁安3年(1168年) 12歳
伊東祐親 元永2年(1119年) 61歳
和田義盛 久安3年(1147年)生 33歳
大姫 治承2年(1178年)生 2歳
平清盛 永久6年(1118年)生 62歳
大庭景親 保延6年(1140年)生 40歳
土肥実平 天永元年(1110年) 70歳
岡崎義実 天永3年(1112年) 68歳
佐々木秀義 天永3年(1112年) 68歳
工藤茂光 天仁3年(1110年) 70歳?
仁田忠常 仁安2年(1167年) 13歳
上総広常 保安元年(1120年) 60歳

 

必ず起つと信じておりました」と養子の比企能員(佐藤二郎)に戦支度を迫る比企尼(草笛光子)。それに対し「ずっと仕送りをしていたのを知っていました」と言いつつ夫比企能員に出陣を留まらせようとする妻の(堀内敬子)。

『吾妻鏡』に「北條時政と比企遠宗が伊豆国の流人源頼朝を擁立して謀反を企んでいる」と京都に企てが露見していたことが記されていたことからも、主犯格は北條時政(坂東彌十郎)と比企遠宗であり、比企遠宗が治承4年(1180年)のころにはすでに亡くなっていたことから後家である比企尼、そしてその養子比企能員が引き継いでいたものと思われます。要するに比企尼が完全に主犯格の1人なのであって、人的にも経済的にもずっと支えてきたことを敢えてにツッコミを入れさせているわけです。ただ主犯格であるのになぜ挙兵時に比企氏が積極的に関わっていなかったのかという矛盾点がこのような描写を生んでいます。

とはいえ比企尼の娘婿小野田盛長(野添義弘)がずっと源頼朝に近侍していますので、比企氏もやはり挙兵に協力してきたと言えるかとは思いますが…。

 

 

8月23日しとどの窟のシーン。梶原景時(中村獅童)が源頼朝(大泉洋)を見逃したという件は『源平盛衰記』の有名な話であり、『吾妻鏡』にも見られますが、後世の創作になります。梶原景時大庭景親(國村隼)の従兄弟であり、石橋山合戦のみならずその後も大庭景親に従軍しており、六本松合戦で敗走して以降、大庭景親が降伏したときでさえも潜伏しており、大庭景親が斬首されてしばらくしてからようやく投降し、その翌年になって鎌倉幕府の御家人に加えられた経緯を考えれば、平家方として戦い抜いており、事前に裏切っていたとは到底思えません。一族としても梶原景時が裏切り者の汚名を着せられるのはつらいところです。

 

そもそも正安2年(1300年)ころに書かれたとされる『吾妻鏡』は伝承や日記、曲筆などで構成されているため、研究者の間では「信憑性に欠ける」「信じることはできない」と長年評価されてきました。史実は事実ではないのです。もっと言ってしまえば三谷幸喜さんが「99%史実をもとにしている」とは言うものの、そもそもいくつもの作り話をもとにドラマを作っているのだからほぼ作り話なのです。そう思ってドラマを観ることが重要なのでしょう。

 

 

甲斐源氏、武田信義はその長である」とナレーションで紹介されます。武田信義(八嶋智人)が「頼朝に力を貸すつもりはないが、北條は助けてやってもいいぞ」と言います。

さてこのころの武田氏の動きを確認しておきたいと思います。まず平井義直石橋山合戦大庭景親軍に従軍しており、討死しています。甲斐国平井郷から石橋山までおよそ100kmほどで到着までに4~5日を要することから遅くとも8月18日ころには出兵したと考えられます。加賀美遠光の一族である秋山氏、小笠原氏、武田有義など在京して平家方に仕えている者も多く、源頼朝挙兵当初は旗幟を鮮明にしていません。8月21日に武田信義安田義定一條忠頼らが挙兵し平家派の氏族と戦っており、武田信義が甲斐国を掌握しきれていなかったことを物語っています(『山記』)。要するに「長である」というナレーションにはこの時点ではやや矛盾があるのです。

ドラマでは援軍を断られてしまっていますが、実は安田義定とともに工藤景光工藤行光市川行房らが救援に向かっています。ただこれは「頼朝に力を貸すつもりはないが、北條は助けてやってもいい」という言葉は本来は「頼朝に力を貸すつもりはないが、狩野は助けに行かなければならない」でしょう。甲斐源氏は伊豆国の狩野工藤氏と姻戚関係をもつ氏族が多く、その1人が工藤景光であり、狩野工藤茂光(米本学仁)救援のために向かっていたものと思われます。

 

ところで、北條時政(坂東彌十郎)と北條義時(小栗旬)は8月24日の早朝に椙山を発って甲斐国へ向かい、8月28日の真鶴岬からの脱出の折には相模国に帰ってきているので、往復3日で甲斐国へ行っていたことになりますが、場合によっては片道100km近くあるので早馬でも往復で5~6日はかかります。敵と戦いながらゆっくり歩いていたのでまず難しいかと思います。北條父子は房総半島には行っていないという説を覆して、どうしても房総半島に行かせようとするからこういった無理が出てきてしまいます。9月8日に房総半島から甲斐国へ派遣されたという説もあるわけですからこのタイミングで無理に甲斐国へ行かせなくてもよかったはずです。

さらに、当の武田信義は8月21日に以仁王の令旨を掲げて挙兵して以降は甲斐国で反平家派と戦って信濃国へ侵攻しており、また、8月24日には大庭景親軍の侍大将俣野景久と駿河国目代橘遠茂と激突し、8月25日には駿河国波志田山合戦安田義定俣野景久軍を破っています(『吾妻鏡』)。武田信義が北條父子とこのタイミングで話せるほど余裕があったかどうかも怪しいです。『吾妻鏡』では甲斐源氏は源頼朝の指示でともに行動していたように記されていますが、この時期は源頼朝の指揮下に入る理由がないので、武田氏は単独で動いていたものと思われます。

なお、『吾妻鏡』では武田氏は20,000騎で駿河国へ侵攻したと記されていますが、当時の人口や石高を考えると、甲斐国から出兵できる人員はせいぜい1,500~2,000人程度です。しかも甲斐国を完全に掌握できていたわけではないのでせいぜい武田信義軍は1,000騎ほどかと考えられます。

 

どこぞの山中で敵に囲まれ、2対4でも勝ってしまう強い北條時政。そんな北條時政に「佐殿では先が見えた」「手を切るにはいい機会」「他に生き延びる手立てがない」「覚悟に縛られて命を落とすのはバカげてる」と言わせていますが、この言葉は確かに当時の武士たちの生きざまそのものだと思います。ただ主犯である北條時政に言わせてはいけないセリフであるとも思います。北條宗時(片岡愛之助)やりく(宮沢りえ)のキャラクターを際立たせるためにどうしても今回の北條時政の性格をこのように優柔不断に形成させてしまっていますが、本来は北條時政がバリバリ推し進めたその張本人です。

 

土肥実平(阿南健治)が潔く自害する作法について説こうとしますが、源頼朝は拒否します。潔く自害するような性格なら平治の乱(1160年)のときにとっくにしていたでしょう。

なお、小野田盛長(野添義弘)のすすめで箱根権現へ移ろうという話になり、「北西に25里」というと源頼朝は「25里、遠い~!!」とげんなりします。ちなみに『草燃える』では箱根権現へ行ってから安房国へ向かっていますが、今回のドラマでは結局「箱根権現へ向かったが敵が多く途中で引き返してきた」と箱根権現へは行かなかったとなっています。25里は、東泉寺/廿五里(ついへいじ)と関連づけたネタですね。

 

10年前に亡くなった北條政子(小池栄子)と実衣(宮澤エマ)の母についての話題に。りくと母は性格が正反対、ただそれは北條時政にとってよかったという話になり、りくが「戦が終わったらもっともっと焚きつけてやります」と言うところでこの件は終わりました。

ただここで気になるのは、北條時房の存在です。北條時政と牧の方(このドラマ上ではりく)との間に安元元年(1175年)に生まれた北條時房(後の北條時連)がこのころに5歳になっているはずなのですが、第1回と第2回で生まれている描写もなかったですし、外で遊んでいる子どもたちのなかの1人なのかもしれませんが、第5回で実衣が「本当に妊娠しているのか全くお腹が大きくなっていない」という言葉に北條政子が「そういう人もいるみたいよ」といった会話があるように、りくの出産を過去に見たことがないような描写でした。この点は『草燃える』でも矛盾がありましたが、このドラマでは今後どのように描かれていくのでしょうか。

 

 

北條時政北條義時は石橋山へ向かっていたはずなのに、なぜか岩浦へ出てきます。いやいや相当遠回りですよ。そしてなぜか12歳の三浦義村(山本耕史)がタイミングよく岩浦に。「頼朝を助けに来たが、居場所が分かず引き返すところだった」とうまくツッコミを入れていますが、不自然極まりないです。当然岬にいれば敵にすぐ見つかります。三浦義村北條時政は「逃げるが勝ちじゃ」と言って源頼朝を待たず岬を出て行ってしまいます。

 

 

8月24日に由比ガ浜で対峙した畠山重忠(中川大志)と三浦義澄(佐藤B作)の軍勢。一説によれば畠山重忠三浦義澄の甥にあたります。和平がなりかかっていたところで遅れてきて事情を知らない和田義盛(横田栄司)の弟和田義茂が畠山勢に斬りかかってしまい大混戦(ドラマ上では和田義盛が張本人になっていましたが)。由比ガ浜から小坪坂にかけて合戦(由比ガ浜・小坪坂合戦)となり、三浦勢は衣笠へ退いていきます。そして畠山重忠軍に河越重頼江戸重長らの軍勢も加わり衣笠を包囲するのが8月26日。

さて、そんななかで三浦義村だけなぜ源頼朝を助けに行けるのでしょうか???結局、これもどうしても岩浦の件を出したいからこういった無理が出てくるのです。伊東祐親(浅野和之)に「岩浦から船で逃げた者がおる、すぐ調べろ」と言わせている辺り非常に忖度が見えますが、脱出した岬が岩浦なのか真鶴なのかの論争はあるけれど、無理やりで矛盾が出てくるのです。

なお、8月27日に衣笠は陥落し、88歳の三浦義明が討死します。外孫の畠山重忠に攻め殺されたことになります。『吾妻鏡』では「我は源氏累代の家人として老齢にしてその貴種再興にめぐりあうことができた。今は老いた命を武衛に捧げ、子孫の手柄としたい」と壮絶な最期を遂げたとしていますが、『延慶本平家物語』では老齢の三浦義明が足手まといとなって置き去りにしたと記されています。今回のドラマでは前者が採用されたようです。いずれにしてもそんな重要な一族の合戦に、三浦義村がいなくてよかったのかな?

 

 

 

 

八重(新垣結衣)が明け方に夢枕に源頼朝が立って無事を知らせてくれたと話します。当時の人たちが夢のお告げを信じる件は以前にもあったことですがわざわざ確証もないことを話にくるでしょうか。北條政子が悔しがってバケツを蹴飛ばしますが、蹴鞠をやっていたときの伏線の回収でしょうか…(笑)

さて、5年間も放っておいた千鶴丸(太田恵晴)のことをふと思い出した八重文陽坊覚淵(諏訪太朗)に会わせてほしいと願います。すると立派な五輪塔(墓)に案内され泣き崩れるのでした。ちなみに第7回でも八重伊東祐親に問い詰めるシーンがあり、孫でも平気で殺害するという描写は第5回の北條宗時殺害のときにもありましたし、千鶴丸生存説は0%ではないと思っていたのですが、もうほぼ0%のようです。

 

 

大庭屋敷で首実験が行われます。すでに大庭に引き上げていたということになるのですが、裏切った三浦攻めと甲斐武田攻めがここで決まります。実際は8月24日には甲斐国に向かって出兵していますし、8月26日には衣笠攻めも行っているため、このような首実験を悠長に行っているような余裕はなかったはずです。ましてや大庭に引き上げてからなんて余裕はありません。

また、ギリギリまで味方と思わせて裏切ったとされる三浦への報復で畠山重忠を向かわせますが、大庭景親はもともと三浦が敵方であることを知っていたはずです。第5回でもこの辺りの「三浦はもともと敵だった」という描写は梶原景時に言わせていました。

『吾妻鏡』などの記述からは、大庭景親には「北條時政と比企遠宗が伊豆国の流人源頼朝を擁立して謀反を企てている」こと、「北條館に三浦義澄と千葉胤頼が出入りしている」ことが知られており、そのことからも京都で情勢を把握している三善康信(小林隆)が「勝てるはずがない」「奥州へ逃げるべきだ」と弟三善康清を派遣しています。さらに、6月の時点で源頼朝からの使者は大庭景親のもとにも訪れており、「三代にわたって源家相伝の家人であったのだから源家中絶のあとを興すことに加勢すべし」と伝えられたところ、大庭景親は「保元の戦(1156年)では天皇の命令で源義朝に従ったものの、源家相伝の家人ではない上に、天養の戦(1144年)で源義朝に攻め込まれた恨みを我ら一族決して忘れてはいない」と拒否したともされています。ただドラマ上で首藤経俊(山口馬木也)が「武士の情けだ、言わないでおいてやる」と言っていた言葉は本来大庭景親の言葉であり、平清盛(松平健)や伊藤忠清には言わずに相模国へ帰国しました。

その後、8月9日には大庭景親は鎌倉一族で軍議を開いた折、兄懐島景義と弟豊田景俊源頼朝に与することを容認しており、特に兄懐島景義とは「どちらが勝っても負けてもお互いに助け合うことを誓おう」と袂を分かつことを決めていることからも、おそらく鎌倉党でありながらも三浦義明の娘婿長江義景が三浦方に与することもこの時点で明らかになっていたであろうし、三浦の動きも把握されていたものと思われます。

また、第5回も第6回も源頼朝の首の話になっていますが、刑法に問われ処刑された者はわずか「十か一つ」と記録されており、斬首されたのはせいぜい1割にすぎないことからも、特に降伏してきた者についてはほとんど首を刎ねるようなことはしないことがうかがえます。このことは三浦義村が「この戦に勝算はない」「大庭も伊東ももとは仲間だ、頭を下げれば大目に見てくれるだろう」「源頼朝を差し出す、それしか手はない」「頼朝と心中するつもりはない、早いところ見切りと付けた方がいい」と言っているように、当時は敵対しても降伏した者はほとんど処刑されるようなことはなかったことを物語っています。

 

 

 

 

岩浦まで25里と聞いた源頼朝はまた「また25里~」と再びうんざりしています。しかも岩浦に着いてみれば誰もいない。結局土肥実平に真鶴岬へ行けば土肥の船を出せると聞いて「ではなぜ最初からそちらへ行かないのか」と源頼朝にツッコミを入れさせています。

8月28日、真鶴岬から脱出し、安房国へ目指します。

 

 

8月29日、安房国平北郡猟島に到着します。安房国平北郡は古くから三浦氏の所領です。ここで三浦義澄の娘婿安西景益が迎え入れます。平治の乱(1160年)で敗れて以降衰退した三浦氏は長寛元年(1163年)に平家派の安房国長狭郡の長狭常伴と所領をめぐって争っており、三浦義澄の兄であり和田義盛の父杉本義宗が負傷し亡くなっています。安西景益は安房郡西部を領しているため安西を称しており、「千葉大系図」「安西氏系図」では千葉氏の一族とも記されますが、三浦氏の一族であり、特に三浦義澄の娘婿である安西景益は敗走する三浦義澄源頼朝を支援するのは当然の流れといってもいいでしょう。

安房国朝夷郡丸御厨を本拠とする在地領主の丸信俊も恭順したとされていますが、かつて源義朝源頼朝の官位昇進を祈願して平治元年(1159年)に伊勢神宮に寄進した縁の深い土地であり、丸信俊が20年も前のことを理由に迎え入れる義理はないのですが、平家討伐の宿望が果たされたときには親御厨を立て重ねると源頼朝が約束したため丸信俊は恭順したと『吾妻鏡』には記されています。

 

 

 

 

 

 

北條時政の変わり身の早さに目を細める北條義時。この描写今までも何度か描かれていますね。

仁田忠常(高岸宏行)によって観音像が届けられると、いよいよ北條宗時死亡が濃厚となります。そこで北條時政は確信し「これからはお前が北條を引っ張っていくんだ、三郎がやりかけていたことをお前が引き継ぐんだよ」と言うと、北條義時はその直前まで「オレに聞くな」と言っていたのに豹変。「石橋山で佐殿をお守りして死んでいった者が浮かばれません」「佐殿がいなくても戦はつづけます」と源頼朝を再度奮い立たせます。

ガイドブックには「兄の無念を分かっていただきたいのです!」と書いてありましたが、ドラマ上ではそんなことは言っていませんでした。ただ、北條時政から「お前が引き継げ」という言葉や第5回の「兄との約束」を受けて北條義時の心境の変化が起こっていることは明白です。

 

 

 

 

和田義盛が「大願成就した暁には侍大将にしてほしい」と願い出ます。源頼朝は「侍の別当にすることを約束しよう」と返しました。これは史実ですが、平清盛の侍大将伊藤忠清のことを意識してのことだとされています。伊藤忠清は東国の侍別当でもあります。別当というのは長官なので、要するに侍たちのリーダーという意味になります。

 

最後に上総広常が登場します。ナレーションでは「上総介広常、頼朝の運命は今この男の肩にかかっている」と言われていましたが、上総広常はこの時点ではまだ上総権介になっていません。この当時の上総権介は兄の印東常茂です。印東常茂は下総国印旛郡の領主であり、平家の親族藤原親政を後ろ盾に上総国にも勢力を拡げており、この当時は京都大番役で在京していました。

上総広常佐賀常澄の八男として保安元年(1120年)ころに生まれたとされ、佐賀常澄は三浦氏と親交が深く下総国から上総国へ勢力を拡大させ、上総広常保元の乱(1156年)に源義朝に、平治の乱(1159年)には源義平に従軍したことから「義平17騎」の1人に数えられるほど源家累代の家人として活躍しました。ところが平治の乱で源義朝が敗れると平家政権下で力を失い、さらに兄たちと家督や領地をめぐる内紛が起こっており、上総広常は兄弟たちとの所領争いやお家騒動を20年以上、つまり源頼朝挙兵後までつづけています。

上総広常は上総国長柄郡一宮を領しており、他の兄弟たちと同じように呼ぶのであれば正確には長柄広常となります。文献上でも平広常とあり上総広常を称したことはないとされています。上総広常は上総氏の惣領として上総国を掌握し一族を束ねていたわけではなく、源頼朝の陣に馳せ参じた折には長柄郡・周淮郡・伊甚郡の三郡の兵で参陣していることからも上総国の一部にしかその勢力が及んでいないことが分かります。長南重常や周淮郡の周西助忠はおそらく上総広常に従っていたものと思われますが、天羽郡の天羽秀常(天羽直胤)、埴生郡の埴生常益、市原郡の佐是円阿、山辺郡の大椎惟常らは上総広常の兄ですがこの段階では旗幟を明らかにしておらず、源頼朝に与した形跡はありません。武射郡には印東常茂の子南郷師常が勢力を拡げていますがやはり動向は不明です。また上総広常の兄匝瑳常成や叔父たちが下総国に多く分布していますが動向は不明です。

なお、安元3年(1177年)に伊藤忠清が上総国に配流されたとき監視役として歓待したのが上総広常であったものの、治承三年の政変(1179年)に解官された藤原為保に代わり伊藤忠清が上総介となり東国武士団を統率する権限を与えられたことによって上総広常と次第に対立するようになり、陳弁のために上洛した上総広常の子上総能常伊藤忠清が拘禁するほど悪化し、ついに上総広常平清盛から勘当されてしまうのでした。さらに治承4年(1180年)8月2日、大庭景親は「謀反の徴候の見える上総広常を京都へ召し出すように」と命令を受けて京都から帰国しています。そんななかで源頼朝が挙兵して房総半島にやってきた。上総広常にとって平家の圧迫は兄印東常茂からの圧迫でもあり、上総広常にとって平家方からの圧迫と家督争いの決着という千載一遇のチャンスでもあったのです。

ただし、『吾妻鏡』にあるように20,000騎で源頼朝を出迎えたというのは当時の人口や石高を考えるとまず難しく、上総国を完全に掌握していたとしてもせいぜい3,000騎ほどとされており、長柄郡・周淮郡・伊甚郡の三郡では3,000騎ですら難しく、『源平闘諍録』に記される1,000騎が妥当なところであろうと思われます。

 

鎌倉幕府はなぜ鎌倉が選ばれたかの真相

源頼朝はなぜ鎌倉を選んだのかという話に必ず引用される千葉常胤の献策は、創作話です。千葉常胤にとっては源頼朝の父源義朝は「御恩」を感じるような相手ではありません。鎌倉党が大庭御厨を源義朝に攻められたときと同じように、千葉常胤も相馬御厨を源義朝に攻め取られているのです。鎌倉党にとっても千葉常胤にとっても源氏は侵略者でしかないのです。

第5回に源頼朝が「政のはじまりは土地を分配すること」と敵から奪った所領を分け与えると言っていましたが、まさに鎌倉は敵から奪った所領であり、植民地だったのです。事前に鎌倉を選ぶなどという大義名分は全くなかったのです。

 

千葉常胤の一族、そして上総広常源頼朝に加担したのは、『吾妻鏡』が描くように両氏が源家累代の家人であったからなどではなく、彼らにとっては上総介となった東国侍別当伊藤忠清や、平家親族藤原親政、そして下総国に侵攻してきた常陸国の佐竹氏の圧迫に対して、源頼朝を担ぐことによってそれを押し返し、奪い取られた自領を復活するための起死回生の賭けであったと解されています。それは、関東で源頼朝の元に参じた他の有力領主たちにも全く同じことが言えるのです。