2022年1月9日(日)に初回放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第1回の感想です。

完全ネタバレなので、ご注意ください。

 

NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。

 

見終わったときの最初の感想は、やっぱり1979年大河ドラマ『草燃える(永井路子さん)』へのリスペクトを感じました。

はじめからかなり近づけてくるだろうなあと思ってはいましたが、比べながら観ているとより充実して観ることができました。

 

点数をつけられるほどの立場にはありませんが、評価させていただくとすれば、100/100点です!!

 

 

 

 

オープニングが格好い

石像?木像?粘土?風のCGの人形が並ぶオープニング、格好よかったです。

何か潜んでいないかまたじっくり観てみたいと思います。

なお、流れる役者の順番は以下の通り。

北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、畠山重忠(中川大志)、北條宗時(片岡愛之助)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、伊東祐清(竹財輝之助)、工藤祐経(坪倉由幸)、三浦義村(山本耕史)、善児(梶原善)、和田義盛(横田栄司)、三浦義澄(佐藤B作)、木曽義仲(青木崇高)、巴御前(秋元才加)、仁田忠常(高岸宏行)、江間次郎()、河津祐泰()、千鶴丸(太田恵晴)、平清盛(松平健)、藤原秀衡(田中泯)、伊東祐親(浅野和之)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順です。

 

中心人物は義時12歳と義村7歳

 

 

 

安元元年(1175年)伊豆、という字幕から物語がはじまります。ガイドブックには秋とあります。『草燃える』では治承元年(1177年)10月でしたが、『鎌倉殿の13人』では安元元年(1175年)秋のこととなりました。北條時政(坂東彌十郎)と伊東祐親(浅野和之)が天皇の警護のため京都大番役として3年間在京していましたが、務めを終えて3年ぶりに帰ってきました。よってここではっきりしたのは北條時政伊東祐親が伊豆国を不在にしていた期間です。『草燃える』では京都大番役に出仕していた時期が異なっていたため物語上で様々な矛盾点を生んでいました(例えば不在のはずの北條時政源頼朝を匿ったなど)が、『鎌倉殿の13人』では出仕していた時期を同じにすることで話をシンプルにしています。

 

京都大番役に出仕していた期間
  鎌倉殿の13人(2022) 草燃える(1979)
北條時政 1172年秋~1175年秋 1174年10月~1177年10月
伊東祐親 1172年秋~1175年秋 1172年9月~1175年9月


第1回は、北條時政が帰ってきてからの2日間を描いています。

 
安元元年(1175年)当時の登場人物の年齢を確認しておきましょう。
北條時政 保延4年(1138年)生 37歳
北條政子 保元2年(1157年)生 18歳
北條宗時 不明 16歳ぐらい?
北條義時 長寛元年(1163年)生 12歳
源頼朝 久安3年(1147年)生 28歳
小野田盛長 保延元年(1135年) 40歳
三浦義澄 大治2年(1127年) 48歳
三浦義村 仁安3年(1168年) 7歳
伊東祐親 元永2年(1119年) 56歳
和田義盛 久安3年(1147年)生 28歳
畠山重忠 長寛2年(1164年)生 11歳
 
北條屋敷(『草燃える』では北條館)では、3年ぶりに京都から帰還した北條時政を祝う酒宴が催されていました。
北條時政は直垂でみんなの前へ出て行こうとしましたが、北條政子(小池栄子)が雅な装束へ着替えるように促します。ここで北條時政は直垂から狩衣へ着替えました。京都の服装と地方(田舎)の武士たちの服装は異なるという表現です。『草燃える』では白い瓶子でしたが、やや茶色がかった瓶子が当時の焼き物の色なのかなと気になるところです。
 
 
 
 
 
ナレーションにもあったように伊東祐親平清盛(松平健)に気に入られ、源頼朝(大泉洋)の監視役を任されるほど伊豆国で一番力を持つようになっていました。三浦義澄(佐藤B作)は伊東祐親のことを「オレたちの舅だぞ」と言っているように、北條時政三浦義澄はともに伊東祐親の娘婿です。後に三浦義村(山本耕史)が「伊東を敵にしては我が家は立ち行きません」と言っているように北條氏も三浦氏も平家政権下で力のある伊東祐親の娘婿になることによってようやく自分たちの土地を維持してきたという側面を持っていました。
ちなみに、酒宴の席で北條時政三浦義澄は仲良さそうにはしゃいでいますが、このとき北條時政は37歳。三浦義澄は48歳。同じ娘婿とはいえ年齢は一回り近く三浦義澄の方が上になります。機転の利く切れ者として登場する三浦義村はこのときわずか7歳です。『草燃える』でも33歳の藤岡弘さんが9歳の三浦義村を演じていましたが、今回も子役は使わず酒まで飲んでしまう豪快な7歳を45歳の山本耕史さんが演じています。年齢差38歳…ただ一説には平治2年(1160年)生まれともされているのでその場合は15歳ということになります。15歳だとしても年齢差30歳ですね。
 
北條義時(小栗旬)が木簡を整理しているとき、三浦義村が「都から流されて伊東祐親のところで面倒みていた罪人(源頼朝)が、伊東祐親が不在の間に八重と深い仲になり、八重は源頼朝の子を出産していた」と告げました。北條義時伊東祐親の娘八重(新垣結衣)に恋しており(初恋)、3年前に北條時政伊東祐親が京都へ赴任する際の祝いの席で会ったのが最後ということですが、3年前は北條義時は9歳です。三浦義村はそのころから2人は付き合っていたはずだと推測していますが、それもそのはず、源頼朝八重との間の子千鶴丸(太田恵晴)は3歳になります。ということは北條義時八重に最後に会った3年前の祝いの席のころには生まれていたことになり、伊東祐親がまだ伊豆国にいるうちに源頼朝八重は深い仲だったことになります。ここは大河ドラマあるあるですがやや矛盾があります。千鶴丸は数え歳で3歳(実際は2歳)ということにしておきましょう…。
 
 
 
 
3年前(1172年)、伊東祐親北條時政が京都へ赴任する前の祝いの席で、北條義時は叔母の八重に会い相思相愛だと思い込んでいたが、すでにこのときには源頼朝の子が腹の中にいたことになります。それを知って北條義時は「オレのこと好きなのかと思ってた」とショックを受けていました。初恋の相手が伯母(母の妹)というのが何とも可愛らしい北條義時は3年前は9歳です。同席していた三浦義村は3歳ということになりますが、どう見ても3歳には見えない…。
 
 
 
ところで、工藤祐経(坪倉由幸)もまだ1172年は北條時政三浦義澄らと同じく伊東祐親の娘婿です。工藤祐経はドラマのなかでは「爺様」と呼んでいるものの、伊東祐親の従弟にあたります。従兄で且つ義父に向かって「爺様」って失礼な呼び方ですよね…。なお、ドラマ上では酔って銅拍子を叩きながら歌っていた工藤祐経は鼓の名手とされており、『吾妻鏡』に文治2年(1186年)に源頼朝静御前に舞を命じたときに工藤祐経が鼓、畠山重忠が銅拍子を担当したと記されています。また『義経記』には梶原景時が銅拍子、工藤祐経が鼓、畠山重忠が笛を担当したと記されています。伏線となってまた工藤祐経の囃子のシーンが見られるかもしれません。
そんな工藤祐経は、従兄で且つ義父の伊東祐親から勘当されてしまい、伊東荘を奪われ、家督を奪われ、妻(伊東祐親の娘)と離縁させられてしまいました。工藤祐経は「所領を奪われたこともつらいが、妻と離縁させられたことが何よりつらい」「伊東の嫡男は私だったのです、あの人は力づくで奪い取った」と伊東祐親を恨んでいます。しかしここに矛盾があります。そもそも伊東祐親工藤祐経の所領伊東や家督を奪ったのは、工藤祐経が京都大番役として上京している不在のことです。ところが不在だったのは伊東祐親の方で、工藤祐経は伊豆国にいるのです。京都から北條時政と一緒に伊豆国に帰ってきたばかりの伊東祐親がいつどうやって奪ったのかがやや辻褄が合いません。
いずれにしても行き場がなくなった工藤祐経北條時政に「工藤のやつは本当に面倒くせえやつだなあ」「帰ってもらえ」と無下にされているところ北條義時の指示により源頼朝の警護を担うようになり、源頼朝の下人となりました。
 
 
 
 
 
北條義時の兄北條宗時(片岡愛之助)が源頼朝を匿っていることが分かります。兄北條宗時源頼朝のことを「すけ殿」と呼んでいます。罪人となる前に右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)という官職を拝していたことから佐(すけ)殿と呼ばれていました。
北條宗時は「この坂東だって平家とつながってるやつらが人の所領を奪い、馬や女を奪い、甘い汁を吸っている」「オレは佐殿の力を借りて平家をぶっ潰すぜ」と笑顔で話します。『草燃える』では北條宗時(中山仁)は「一か八か賭けてみる値打ちがある」と言っておりキャラクターが冷静で頼もしい長兄からちょっとおバカな熱血漢にだいぶ変更されたように感じます。
 
ここで伊東祐親の次男伊東祐清(竹財輝之助)が迎え入れられます。伊東祐清伊東祐親の息子でありながら父親のやり方に疑念を抱き、妹八重をこれ以上つらい目に合わせたくないと北條宗時に協力することを告げ、北條宗時も「八重と千鶴丸を助ける」と約束しました。伊東祐清は、北條宗時北條義時兄弟からすれば伯父(母の弟)にあたります。
 
ちなみに、『鎌倉殿の13人』では源頼朝が流罪で配流されたのは伊東であって、蛭が島ではないということになります。
伊東から脱走して北條を頼り、蛭が島で暮らすようになる、ということになります。
 
 
佐殿をお護りするためあなたの兄上に呼ばれました」と和田義盛(横田栄司)と畠山重忠(中川大志)がいます。和田義盛三浦義澄の甥にあたり、三浦義村の従兄にあたるので、祝いの席に三浦一族として列席していてもおかしくはありません。また畠山重忠三浦義明の娘の子なので、三浦義澄の甥にあたり、やはり三浦義村和田義盛畠山重忠は3人とも従兄弟同士になります。ところが三浦義澄三浦義村父子は2人だけ(+下人1人)で帰っていったのでどうやら三浦一族として列席していたわけではなく、本当に源頼朝を護るために呼ばれていたようです。前述したように三浦義村は7歳ですが、このとき和田義盛は28歳。畠山重忠は11歳です。
北條義時が「遠いところからわざわざご足労いただいてすまないが」と帰らせましたが、北條から畠山までは直線距離でもおよそ170kmあり、馬で走らせても5日はかかる距離です。北條から和田までも直線距離でおよそ110kmあり、馬で走らせても3日はかかります。ここに矛盾があります。つまり畠山重忠が北條へ来るまでには、まず北條から早馬を走らせて「源頼朝を警護してほしい」と知らせに行って、畠山重忠が準備をして北條へ馬を走らせてくるまでに延べ10日はかかるということです。ということは10日以上前に源頼朝が伊東を脱走したことになります…が伊東祐親が帰ってきたのは北條時政と同じ日なので辻褄が合いません。
さらに、三浦氏は平治の乱で敗北した側であるため平家政権下では苦汁をなめてきた一族です。ただし畠山氏は平家政権下で決して冷遇されていた一族ではありません。このまま平家の世が続いていいと思っているのかと畠山重忠は詰め寄りましたが、畠山重忠はこのまま平家政権が続いてほしいと思っていた側ではないだろうかと感じます。
 
なお、北條義時三浦義村に「佐殿が立ち上がれば平家の世はひっくり返るのか」と聞いたところ「無理だ」と即答。「佐殿が北條にいることはくれぐれも内密に」と言われた三浦義村は「心得た」といいつつも、帰りに父三浦義澄に「ここは爺様(伊東祐親)に伝えるべきでしょう」「伊東を敵にしては我が家は立ち行きません」と三浦氏だけでなく北條氏をも守る方法を考えついたとは言うものの、あっさりと北條義時との約束を反故にしてしまう描写が描かれています。
 
 
 
 
仁田忠常(高岸宏行)が伊東祐親が北條屋敷にやってきたことを告げにきます。仁田忠常は工藤氏の一族です。仁安2年(1167年)生まれなのでこのとき8歳です。「北條を支える武士」と紹介されますが、厳密には狩野工藤氏を支える武士です。腕に何か巻いているのが一体何なのか注目です!!まるで北斗の拳???
伊東祐親が息子たち河津祐泰伊東祐清を引き連れて北條屋敷にやってきました。娘八重に手を出した源頼朝を「あの男だけは絶対に許せん、源頼朝」と激怒しています。
シリアスな会話のシーンの後方で、部屋の中で相撲のシーンが出てきます。このころの文化があちこちに散りばめられていて目が離せません。
 
 
 
 
 
蹴鞠(しゅうきく)を行うシーン。これもわざわざ北條時政が土産に持って帰ってきた描写が描かれており、蹴鞠があってもおかしくないという整合性をつくっています。にしても、サッカー選手???誰の足???
源頼朝の侍、小野田盛長(野添義弘)は三河国八名郡小野田を本拠とする藤原の一族で、源頼朝の乳母比企尼の長女を妻としており、比企尼の指示により流人源頼朝に仕えて何かと世話をしたり警護をしたりしています。文治5年(1189年)奥州合戦での恩賞として陸奥国安達郡を拝領してから「安達盛長」を称しているのでこの時点ではまだ安達を名乗っていません。
小野田盛長が見張り役を誰か1人付けてほしいと北條義時に頼み、工藤祐経があてられました。
 
 
 
 
北條時政が後妻を迎えたと話します。嫁入り支度を整えて遅れて伊豆国へやってくるとのこと。北條義時は「母上が亡くなってからまだ日が経っておりません」と言っています。伊東祐親が「仲立ちしてやった」と言っていることから、北條時政の妻(伊東祐親の娘)はすでに他界しており、伊東祐親の仲立ちによって後妻を迎えたという話は、『草燃える』までの伊東祐親の娘婿でありながらなぜ後妻を迎えられたのかという関係性の矛盾を解決しています。
ところが、源頼朝を匿っていることを知ると、「バカヤロー!」「正月と三島明神の祭がいっぺんに来たと思ったら弔いまで重なってしまった」と激怒。しかし実際に源頼朝と会ってみると「割といいやつだな、やはり源氏の嫡流ともなると言葉に重みがある」と感心しました。
北條宗時が「平家の世をひっくり返す」と言ったとき、北條時政が「何を言ってるんだ?こいつ本気なのか?」という温度差の表現は非常に秀逸です。ちなみに、三島明神というワードも後々につながってくると想像できます。

 
北條義時伊東祐親の伊東屋敷に八重への手紙を届けに行きます。江間次郎との対面です。
北條義時は『吾妻鏡』などでは江間四郎、江間義時などと記されるほか、江間次郎と記されることもあります。『豆州志稿』『曾我物語』『真名本 曽我物語』などに登場することから、長年同一人物か別人か、あるいは伝記ものの架空の人物かと議論されてきましたが、『鎌倉殿の13人』では別人で扱われています。
 
なお、北條から伊東まで直線距離でもおよそ23kmほどあり、馬が潰れないように休憩しつつ馬で走って半日はかかります
 
 
 
 
 
 
北條義時の初恋の相手、伯母の八重源頼朝からの手紙を届けます。そのとき伊東祐清の指示によるものか下人の善児千鶴丸を川へ連れていきます。北條義時が川の近くを通ると服だけを持った善児が「自分が殺しましたよ~」と言わんばかりにわざとらしく立っています。これを見て北條義時は「千鶴丸は殺されました」と北條屋敷にて報告しますが、伊東祐清八重がこれ以上つらい思いをしないようにと言っていた八重の兄であり、源頼朝逃亡を手助けした人です。本当に殺すでしょうか???しかもなぜわざわざ服を脱がした???
千鶴丸伊東祐親に殺された体にはなっており、北條宗時が「怖い人だ」と言っていますが、伊東祐親が殺害を指示したとも、そして実際に殺されたともまだ分かっていません。様々な伏線となってこれからのドラマにつづいていくものと感じています。
さらに不可解なことは、北條義時伊東祐親の襲来を告げると、すでに北條宗時らは武装準備を行っていました。戦になることを最初から分かっていたかのように。
 
なお、八重北條義時は10年前の思い出話をしますが、10年前は北條義時はわずか2歳です…(苦笑)
 
 
 
食事のシーンや盤双六のシーンなど、第1回は本当に平安文化盛だくさんでした。
 
 
 
 
千鶴丸殺害を聞いて北條義時の前では平然を装っていましたが、源頼朝は「伊東祐親、決して許さん!」と本性を出して、工藤祐経伊東祐親殺害を命じます。これが河津祐泰の死、そして曽我兄弟の仇討ちにつながっていくわけですね。
なお、伊東祐親源頼朝も双方に同じセリフを言わせるあたり、にくい演出ですね~!!
 
なお、清水寺の観音像は、後の石橋山合戦の折に、源頼朝が髻の中に入れていましたが、大庭景親に見つかって首を討たれたときに源氏の将らしくない、恥だとしてしとどの窟に置いたとされています。
 
 
 
 
北條政子源頼朝を女装させて逃がす、これがまた大姫木曽義高の話につながっていくと思うとまた先が面白いですね。