大鎧は日本史上最も軽い鎧

大鎧は日本史上最も軽い鎧、と言い切ってしまうと大変な語弊はあるものの、 平安時代の鎧についてのあれこれ(1) に記載したとおり、少なくとも奈良時代後期の光仁天皇桓武天皇が国家的に革製の鎧兜をつくらせて以降、挂甲短甲よりもずっと軽い鎧として大鎧が出現したことは間違いありません(『続日本紀』)。挂甲短甲など重装歩兵が蝦夷(阿弖流為)にこてんぱんにやられて以後、蝦夷(俘囚)によって弓馬戦法とともに騎馬用の革製鎧がもたらされていきました。大鎧の実態は重装歩兵をやっつけたロビンフッドのような軽い革の鎧であり、情報社会といわれる現代にあっても「大鎧は重い」というイメージはまだまだ根強く勘違いされています

 

940年ころにつくられたとされる大山祇神社所蔵の『延喜の鎧』が現存する最古の大鎧であり、『延喜の鎧』の小札は全て革ですが、しだいに鉄の小札(鉄札)も使われるようになっていき、

鎧を構成する小札は「一枚交ぜ」「鉄交ぜ」「鉄革交ぜ」といわれるようになります。全てが鉄でつくられた鎧は皆無であり、むしろ大部分は革でつくられていました。「一枚交ぜ」というのは鉄と革を交互に縅していく技法ですが、それでも使われている鉄はほんの一部分にすぎません。樫鳥絲縅鎧(猿投神社所蔵)や黄櫨匂縅鎧(甘南備寺所蔵)などは正面から射向側に向けて鉄1枚に革2~3枚を交ぜているといった一部鉄札が使用されており、鎧一領の総小札に対しての鉄札の割合は決して高くありませんでした。焼失して鉄部分だけが残った避来矢鎧(唐沢山神社所蔵)は残った鉄札はたった24枚です。避来矢鎧の小札総数はおよそ1,000~1,500枚ぐらいと想定されるので(焼失する前に全ての小札があったと仮定した場合)鉄札は一割にも満たない数しかありません。

小桜韋縅鎧(菅田天神社所蔵)は小札2,066枚のうち鉄札は225枚であり、全体のおよそ一割程度鉄札が使われていることになりますが、これでも比較的多い方かと思われます。草摺の引敷や大袖などは革札のみでつくられているのが通例のようです。

 

比較的重量が重いとされている鎧兜のうち、赤絲縅鎧(武州御嶽神社所蔵)は、鎧は18.9kgで総重量が22.7kgとされています(兜3.8kg・胴13.5kg・脇楯2.4kg・大袖2.2kg・栴檀板0.5kg・鳩尾板0.3kg)。

また小桜韋縅鎧(菅田天神社所蔵)は同じく鎧18.9kgで総重量は20.5kgとされています(兜3.1kg・胴13.2kg・脇楯2.05kg・大袖1.52kg・栴檀板0.35kg・鳩尾板0.28kg)。鉄の部分が多ければ多いほど重い傾向が分かります。

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この図は白が革札、黒が鉄札(鉄板)を示しています。どの辺りに鉄を使用していたかがすぐに分かります。『山梨県立博物館復元調査報告書』を参考して作成したもので著作権フリーではありませんので流用はご遠慮ください。

 

平安初期から平安中期にかけては敷目札(三目札)がよく使われており、弦走韋の下は縦取縅という挂甲に用いる古式の縅し方法がよく使われています。

三目札の幅は3~4cm、沢潟縅鎧(大山祇神社所蔵)は札幅2.9cmであり、出幅も縅毛幅もおよそ1cmです。樫鳥絲縅鎧(猿投神社所蔵)や黄櫨匂縅鎧(甘南備寺所蔵)なども縅毛の幅は狭いです。鉄交ぜがはじまったことで重量軽減のために四目札を多く使うようになり、本小札(並札)へと発展したとされています(梶原説)。

 

 

平安後期には大型の小札(大荒目)が登場します。小桜韋黄返縅鎧(厳島神社所蔵)の小札は札足8cm・札幅4.7cmで、札足は避来矢鎧(唐沢山神社)に次いで大きく、札幅は法住寺殿跡出土小札に次いで大きく、小札の総数は1,080枚と遺物のなかでは最少となっています。天慶の乱(932年)以降、前九年の役(1051年)にかけて形成されていくにあたり重量軽減しつつより少ない小札で効率よく量産できるように発展したものと思われます。

京都東山法住寺殿跡出土小札だけとんでもない大きさで札足8.1cm・札幅9.3cmで稀な大きさになっています。出幅3.1cmということなので縅毛も3cmほどの巾広い絲が使われていました。

 

 

 

次回は出土した遺物の鎧兜を1つ1つ紹介していきたいと思います。