鎌倉武士が独自の視点で語る鎌倉もののふ風土記、第5回のテーマは「平良文と平将門」です。

 

坂東で独立を夢見た平将門とそれを支えた平良文がテーマです。

 

---------------------------------------------------------

 

承平5年(935年)2月4日、京都にいた甥の平将門(33)が任官期が切れて坂東に帰途中に武蔵国の渋谷川で平良望(平国香)平良兼の襲撃を受けました。平良文(50)は救援に駆けつけて平将門(33)に加勢しました (『千葉氏家伝』) 。
平良文(50)は平将門に加勢し、7日7夜にわたる激しい戦で窮地に陥っていましたが、妙見菩薩の化身によって窮地を救われました。平良文(50)は後に妙見菩薩を一族の守護神としました。最終的には平将門(33)と平良文(50)は平良望(平国香)との戦いで大勝しました。

天慶2年(939年)4月17日、平良文(54)は勅命で出羽国に下向し、現地の秋田城介源嘉生の軍勢が衝突したとき、これを鎮圧しました。しかしながら、天慶3年(940年)5月に坂東に帰還したときにはすでに平将門は討死した後でした。

天慶3年(940年)2月14日、平良文(55)の不在中に、平将門(38)は平良望の子である平貞盛平繁盛平良正ら兄弟や藤原秀郷藤原為憲らに討たれて「平将門の乱(承平天慶の乱)」は終焉していました。
坂東に帰還した平良文(55)は平将門(38)の嫡子平将国を奉じて二代新皇として匿いました。

 

平良文(55)の次男平忠頼(11)は平将門(38)の娘婿となっていたこともあり、義父平将門(38)が討たれたため平忠頼(11)・平忠光(9)兄弟は「平将門の乱(承平天慶の乱)」を鎮圧した平繁盛(大掾繁盛)(41)を「仇敵」として対立していましたが、後に平貞盛ら兄弟と和睦し、平良文(55)らは平将門の旧領である下総国相馬郡を朝廷から与えられ、陸奥少目(目代)に任命されました。

 

晩年は下総国海上郡、さらに下総国阿玉郡へ移り住み、天暦6年(952年)12月18日に享年67歳で没しました(『千葉大系図』)。新暦では天暦7年(953年)1月11日。平良文(67)は、平忠頼(23)に「我が子孫は夕顔を割ってみれば、そこに私の化身があるはずだ」と遺言を残したという。
大治元年(1126年)千葉常重は夢枕のお告げに従い、平良文の念持仏である夕顔から出現した夕顔観世音菩薩を本尊とした樹林寺を建立したといわれています。樹林寺の寺紋は月星。寺の裏山には大方砦があります。

---------------------------------------------------------

 

以上の情報からすると、いかに平良文平将門の東国の独立(新皇)を支援していたが分かります。
源頼朝挙兵のとき、平清盛方として鎌倉を守ろうとした大庭景親たちも、あるいは平清盛方から反旗を翻して源頼朝を支援した千葉常胤上総広常も、この平良文の一族たちであり、平将門の遺志を受け継いでいたものたちだったのかもしれません。この遺志は、戦国時代の北條氏や長尾氏が関東管領を争っていた時代までつづくのでした。