アニメ「逃げ上手の若君(逃げ若)」の鎌倉聖地巡礼
アニメ「逃げ上手の若君(逃げ若)」の関連の史跡を巡りたい!鎌倉の聖地巡礼をしたい!という方に情報をお届けいたします!まずは北條時行の系図を確認しておきましょう。14代執権 北條高時の子になります。鎌倉において聖地巡礼となるのは、鎌倉幕府が滅亡するきっかけとなった元弘の乱(1333年)の関連史跡になるでしょう。元弘の乱の概要元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞は上野国生品明神(新田郡新田町市野井)で鎌倉幕府打倒の兵を挙げました。鎌倉幕府は迎撃の兵を向けたものの、武蔵国入間郡小手指原(現在の埼玉県所沢市北野)で小手指原の戦い、武蔵国久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)で久米川の戦い、そして分倍河原の戦いで、新田勢に敗北しました。鎌倉幕府は守勢に転じ、鎌倉に籠もり七つの切通を固めました。分倍河原の戦いの後、援軍も加えて大軍に膨れ上がった新田勢は、鎌倉に押し寄せました。5月16日、三浦義勝が新田義貞に寝返り、関戸で北條軍を撃破。5月17日、新田義貞軍が鎌倉郡村岡郷に到着。 大舘宗氏(極楽寺坂)、堀口貞満(巨福呂坂)、脇屋義助(化粧坂)ら60万騎。 対する北條軍は、金沢貞将が千葉氏に援軍を求めるが、下総国の千葉貞胤、下野国の小山秀朝らが新田義貞軍に寝返り、武蔵国鶴見で金沢貞将を撃破。敗走した金沢貞将は鎌倉に戻り朝比奈坂を守備。5月18日、新田義貞軍は、巨福呂坂・亀谷坂、極楽寺坂、そして化粧坂・大仏坂の三方から攻撃を開始。新田軍は鎌倉道(上ノ道)を南下し、村岡(現在の神奈川県藤沢市村岡)から洲崎(現在の神奈川県鎌倉市寺分)に入りました。洲崎は江島道と2本の鎌倉道が通る交通の要衝でした。鎌倉道(中ノ道)にある離山(長山・腰山・地蔵山)に新田義貞は軍を集めて軍議を行ったともいわれており、新田義貞は多勢いるかのようにあちこちで名が残っています。新田勢は軍勢を3つに分け、それぞれに軍を進めました。洲崎から化粧坂への本陣。狐坂から江島道で巨福呂坂・亀谷坂方面。駒立山や大塚山(戦道峰)から極楽寺坂方面。また、洲崎から常盤をへて大仏坂を進む軍もありました。『太平記』には「村岡・片瀬・腰越・十間坂、50余か所に火をつけて、三方から攻め込んだ」とあり、これが古東海道からの進軍ルートとなります。十間坂(小動岬付近)から日坂(江ノ電鎌倉高校前駅付近)をへて陣鐘山に陣を敷き、極楽寺や稲村ガ崎に出ます。また、手広から大塚山(戦道峰)を越えて現在の鎌倉山から尾根伝いに陣鐘山へいたる山道と、笛田から笛田山を越えて尾根伝いに陣鐘山(聖福寺)へいたる山道があり、洲崎から山を越えて極楽寺坂へ出た軍もありました。巨福呂坂・亀谷坂方面には堀口貞満・大島守之らをさし向け、極楽寺坂方面には大舘宗氏・江田行義らをさし向け、そして化粧坂・大仏坂方面には新田義貞と弟脇屋義助が主力を率いて攻撃しました。化粧坂には大慶寺から十三坊塚をへて進軍していたとされています。巨福呂坂・亀谷坂は、北條一門で執権の赤橋守時率いる鎌倉幕府勢が守りをかためていました。赤橋守時は妹登子が足利尊氏の妻であったことから、北條高時に疑われるのを恥じて死を覚悟してこの戦いに望んだと『太平記』は伝えています。また朝比奈坂を守備していた金沢貞将は新田軍勢の主力が集まる化粧坂へ急行しました。新田方の武将は堀口貞満・大島守之で、5月18日朝、赤橋守時は巨福呂坂から出撃し新田軍を迎撃して洲崎まで追い返しました。『太平記』によれば洲崎では1日に65回もの突撃を繰り返し、新田勢と激戦を繰り広げ、化粧坂を攻撃していた新田義貞軍の背後まで迫り、合流した新田義貞・堀口貞満・大島守之らと洲崎でさらに激戦となりました(洲崎合戦)。激戦のため赤橋守時の軍勢は洲崎に到達した時点で兵力の大多数を失っており、赤橋守時や侍大将南條高直ら90余名が山崎で自刃しました(山崎合戦)。南條高直は家臣に「巨福呂坂へ退き援軍を頼むべし」と進言をもらったものの千代塚で潔く自害したといわれています。等覚寺には北條一族の供養塔があるほか、洲崎に泣き塔という供養塔が残っています。赤橋守時が自害した後、新田勢は攻撃をつづけ巨福呂(鎌倉市山ノ内付近)まで雪崩込みますが、長崎高重ら鎌倉幕府勢の守りはかたく、巨福呂坂・亀谷坂の突破はできませんでした。洲崎合戦で勝利した新田軍は化粧坂・大仏坂へと進軍します。新田義貞・脇屋義助の主力が率いる化粧坂の攻防戦は鎌倉幕府軍の金沢貞将の守りがかたく、新田軍はこの方面で難渋します。5月20日の攻撃時も化粧坂は破られることがなかったため、新田義貞はこの方面での戦いを脇屋義助に任せ、自身は翌5月21日に侍大将大舘宗氏が戦死した極楽寺坂へと転戦しました。極楽寺坂では鎌倉幕府軍の大仏貞直が陣を張っていました。鎌倉幕府軍の守りはかたく、大舘宗氏率いる新田勢の一隊が稲村ヶ崎の波打ち際よりいったんは鎌倉への突入に成功したものの、後続の兵がなく大舘宗氏の一隊は鎌倉幕府勢の包囲攻撃にあい、大舘宗氏ら11人が稲瀬川で討死し、生き残ったものは南方の霊山に立て籠り、仏法寺に陣を張りました。このとき鎌倉幕府方は諏訪氏や長崎氏らが主力だったとされています。5月19日~21日に霊山でも戦いが行われ、仏法寺古戦場が現在も残っています。『太平記』では大舘宗氏の戦死は、鎌倉幕府の大将大仏貞直の近習本間山城守(本間左衛門)の突撃のためとされています。他の複数史料が大舘宗氏の稲村ヶ崎突破を描いており、稲村ヶ崎の十一人塚の伝承もあることなどから『太平記』の記述には検討の余地があります。この極楽寺坂の戦いで、極楽寺はことごとく焼失したといわれています。大舘宗氏戦死の報を受けた新田義貞は、援軍を率いて極楽寺坂に向かいました。聖福寺(陣鐘山)に陣を張っていたといわれています。陣鐘山は現在の江ノ電稲村ガ崎駅のすぐ北の50mほどの高さの山ともいわれていますが、陣が張られた聖福寺の山の修行道場跡に鐘や竜頭(鐘をかけるための部品)が埋まっていたので聖福寺の山が陣鐘山ともいわれています。陣太鼓の胴だけが極楽寺に伝えられています。5月21日夜、新田義貞は引き潮に乗じ鎌倉西方の稲村ヶ崎を突破し、鎌倉市内に攻め入りました。古典『太平記』には、新田義貞が潮が引くのを念じて海に剣を投じると、その後潮が引いたので岬の南から鎌倉に攻め入ったと記されています。この新田義貞の徒渉突破説は史料としては太平記のみが記述しており『梅松論』他の複数史料は極楽寺坂での突破として記しています。近年の考古遺跡の発掘により徒渉突破説はいまだ検討の余地があるものの『太平記』の記述に基づけば新田義貞は防御のかたい極楽寺坂での突破を諦め、干潮を利用して稲村ヶ崎を突破したということになります。また、天文計算によれば、5月18日が干潮にあたり21日とした『太平記』の日付の記述は誤りだという指摘もあります。この稲村ヶ崎での突破が起点となり、三方の口は破られ、新田勢は鎌倉に乱入しました。鎌倉では激戦がつづき、稲瀬川より由比ヶ浜の家々に新田勢が火を放ったため、鎌倉は火災の煙で覆われました。この時大仏貞直・大仏宣政・金沢貞将・本間山城守(本間左衛門)など鎌倉幕府方有力武将が相次いで討ち死にしています。現在の宝戒寺にあった北條執権亭にも火が迫ったため、北條高時ら北條一門は最期であることを悟り、菩提寺である葛西谷の東勝寺に集まりました(東勝寺合戦)。集まった北條一族は283人・家臣は870人でした。5月22日、長崎高重・摂津道準(中原氏)らが順に切腹し、北條高時ら北條一門は自害しました。新田義貞が5月8日に挙兵してからわずか15日で鎌倉幕府は滅亡となりました。戦いの後も新田勢による残党狩りがつづきますが、北條時行ら一部の北條一族は鎌倉を脱出しています。鎌倉攻めによる敵味方双方の戦死者を弔うために、新田義貞は和賀(現在の鎌倉市材木座)に浄土宗九品寺を建て、北條執権亭跡に足利尊氏が後醍醐天皇の命で天台宗宝戒寺を建てています。東勝寺での戦死者の遺体の多くは釈迦堂奥のやぐら群に葬られましたが、昭和40年ころの宅地造成により大部分が破壊されました。陣場・古戦場・供養地・史跡一覧 村岡 戦場となり火に包まれた(太平記)。 八ツ嶋 洲崎合戦の戦没者を弔う。兜松に合祀されている。 泣き塔 洲崎合戦の犠牲者を弔うために建てられた。 陣出・陣出温泉 洲崎合戦で陣が敷かれたことに由来する。 洲崎古戦場碑 洲崎合戦を語り伝える碑。 狐坂 中ノ道と上ノ道をつなぐ江島道にあり戦場となった。 山崎切通 中ノ道と上ノ道をつなぐ切通。山崎合戦の戦場となった。 千代塚 場所は諸説あるが山崎切通付近の神明社の山頂。 等覚寺 鎌倉合戦の戦死者を弔う供養塔・五輪塔がある。 十三坊坂 大慶寺から化粧坂へつづく峠坂で戦場となった。 六本松山 洲崎から化粧坂に至る山(古戦場)。元弘の乱(鎌倉合戦)では新田義貞の弟脇屋義助と北條方の金沢貞将が激しく戦った地であり、新田勢は兵力が優勢であったものの天然の要塞となっていた鎌倉の切通の守りはかたく、混戦が続きました。 脇屋義助は撤退を余儀なくされ、鎌倉幕府が滅亡するそのときまで化粧坂が破られることはありませんでした。 鎌倉幕府が滅亡したとき、現在の旧野村総合研究所にある「すね割り」というところでは敗れた北條方の武士たちが自害したと伝えられています。 葛原岡(梶原山) 洲崎から化粧坂に至る山(古戦場)。 日野俊基墓 倒幕を企てた後醍醐天皇の側近日野俊基の墓。葛原岡で処刑された。 化粧坂 特に激しい戦場となった。 大仏坂 戦場となった。 離山 新田義貞が軍を集めて軍議を行った場所。 亀谷坂 戦場となった。 巨福呂坂 戦場となった。 青蓮寺 泣き塔が移されていた寺。 片瀬 村岡から進軍した新田義貞軍が火を放ち戦場となった(太平記)。 駒立山 新田義貞軍が陣を張り馬を勢揃いさせた。 腰越 新田義貞軍が火を放ち戦場となった(太平記)。 十間坂 新田義貞軍が火を放ち戦場となった(太平記)。 満福寺 新田義貞軍が陣を張った。 日坂 新田義貞が軍を進めた峠坂。新田坂から転化。 大塚山 山道で激しい戦場となった。戦道峰ともいわれる。 聖福寺 新田義貞軍が陣を張った。 陣鐘山 新田義貞軍が陣を張り、陣太鼓や陣鐘を鳴らした。 極楽寺 極楽寺坂攻防戦で焼けた。 極楽寺坂 激しい攻防戦が繰り広げられた。 稲村ガ崎 新田義貞軍が海からまわって鎌倉に入った。 十一人塚 討死した大舘宗氏主従11人の塚。 霊山 新田義貞軍が陣を張り戦場となった。 佛法寺 霊山にある寺で戦場となった。 由比ガ浜南遺跡 由比ガ浜地下駐車場を建設時に4,000体の人骨が発見された。 和田塚 無常堂塚・采女塚などあり戦地となった。 万霊供養塔(骨塚) 簡易裁判所付近の調査で1,000体近くの人骨が発見された。 内裏山 北條館を攻める前に新田義貞軍が陣を張った。 九品寺 新田義貞が敵味方双方の戦死者を弔うために創建。骨塚の人骨も葬られた。 荒居閻魔堂 乱橋碑 戦について記されている。 弁谷碑 戦について記されている。 宝戒寺 戦死者を弔うために後醍醐天皇が足利尊氏に命じ創建させた。5月22~24日に北條一族の供養が行われる。 東勝寺 葛西谷に建立された北條氏の菩提寺。最後の戦いの地となった。 腹切やぐら 北條高時・北條一族ら283人・家臣が870人自害したやぐら。 釈迦堂谷やぐら 釈迦堂谷の奥山頂にある釈迦堂谷やぐら群には多量の生焼けの人骨があったほか、「元弘3年5月28日」と刻まれている五輪塔があり戦死者が葬られたことを物語っている。 鎌倉宮 護良親王を御祭神としており、鎌倉宮の社殿の裏には護良親王が幽閉された土牢があったとされる。 撫で身代わり 護良親王の身代わりとなって自刃した村上義光の像。 護良親王墓 後醍醐天皇の皇子。楠木正成らと倒幕を目指して戦ったが後に足利尊氏と対立し殺害された。 赤橋守時墓 浄光明寺にある赤橋守時の墓。 報国寺 戦死者を弔う石塔・供養塔などが集められている。 朝比奈坂 北條首やぐら 瑞泉寺の裏山奥。北條高時の首をもって逃げ込み埋めたとされるやぐら。 お塔の窪やぐら 貝吹地蔵から番場谷方面へ向かうと北條高時供養塔といわれる五輪塔がある。 貝吹地蔵 北條高時の首をもって逃げ回っていた家来たちを貝を吹いて導いた地蔵。 小坪坂 名越坂 東昌寺 鎌倉幕府滅亡後に住職信海和尚が逗子池子に東勝寺を再建。 八ツ嶋『藤沢の地名(日本地名研究所編)』によれば、神戸製鋼藤沢工場になっているところには八ツ島(八ツ嶋)という畑がありました。元弘3年(1333年)に起こった元弘の乱で激しい戦地となった場所で、亡くなった戦死者たちを土葬にした土饅頭がいくつもあって、それを八ツ島と呼んだことに由来する地名とされています。つまり塚群を八ツ島と呼んでいたようです。激しい戦地であったことを思わせるかのように、この辺りを少し掘ると刀剣類などが出てきて、村人たちは「祟り」があると恐れていたといわれています。八島・八嶋・八ツ島・八ツ嶋・八ガ嶋など様々に記されることがあります。島という地名は海のなかに浮かぶ島に限らず、内陸にもたくさん見られる地名です。※神戸製鋼藤沢工場の敷地内なので、立ち入るには許可が必要です。泣塔泣塔(なきとう)は宝篋印塔のことで、かつて青蓮寺に移されたときにすすり泣く声が聞こえたことから名づけられたという伝承が残されています。宝篋印塔の基壇部には「文和五年丙申二月廿日供養了」という銘文が記されていることから、文和5年(1356年)2月20日に建立されたものと推測されています。洲崎古戦場付近にあるため、元弘の乱(1333年)での戦死者を弔うために立てられた塔といわれていますが、正式な由緒は不明です。戦時中の軍事施設や戦後のJR大船工場がつくられるにあたり崩された洲崎(洲崎山・伊勢山)の一部であり、祟りがあるからと残されたやぐらの一部です。※崖崩れの危険性があり現在は立入禁止になっています。等覚寺(元弘の乱戦没者慰霊石塔群)洲崎古戦場の近くにある等覚寺は応永年間(1394~1428年)に建立された真言宗の寺院です。ただ伝承では山号の「休場山」は梶原景時が休んだ地であるからと伝わるなど古くからあったのではないかともされています。等覚寺には「元弘の乱戦没者慰霊」碑や供養塔があるとされており、戦没者の供養を伝えています。※等覚寺の敷地内ですので一声かけてからお参りしましょう。万霊供養塔(骨塚)昭和28年(1953年)に現在の鎌倉簡易裁判所、由比ガ浜万霊供養塔(骨塚)で900体の戦死者とみられる人骨が発見され、由比ガ浜地下駐車場を建設する際の調査で3,000~4,000体の人骨が発見されました(由比ヶ浜南遺跡 )。元弘の乱による戦没者であろうとされており、報国寺や九品寺などにそれぞれ供養されたとされています。簡易裁判所には万霊供養塔(骨塚)があり、戦没者供養を伝え残しています。※鎌倉簡易裁判所の敷地内にあるので、一声かけてからお参りしましょう。九品寺九品寺は、建武3年(1336年)に新田義貞が敵味方双方の戦死者を弔うために本陣跡地(内裏山)に建立した浄土宗の寺院です。九品とは極楽往生を願う人の生前の行いによって定められた九種の往生の有様をいうとされています。骨塚の人骨も葬られました。※九品寺の境内・墓地にありますので、必ず事前に連絡をして、当日も一声かけてからお参りしましょう。報国寺報国寺には、戦死者を弔う石塔・供養塔などが集められています。北條高時に殉じた北條軍の将士たちの墓という五輪塔があります。由比ガ浜の地下駐車場工事現場から発掘された遺骨も戦死者として納められています。北條・新田合戦追悼歌碑には「いさをしも槍も刃も埋れて 梢に寒し松風の音 華の世を所業つたなく散る君に香一片を焚きておろがむ」と記され、戦死者の供養を伝え残しています。東勝寺腹切りやぐら東勝寺跡には腹切りやぐらがあり、北條高時・北條一族ら283人・家臣が870人自害したやぐらと伝えられています。北條一族らの戦死者が弔われたやぐらは釈迦堂谷やぐら、北條首やぐら(瑞泉寺裏山)、お塔の窪やぐらなどがあります。なお、鎌倉幕府滅亡後に住職信海和尚が逗子池子に東勝寺(現在は東昌寺)を再建しています。また、戦死者を弔うために後醍醐天皇が命じて足利尊氏が宝戒寺を建立し、5月22日の「徳崇大権現会」で北條一族の慰霊供養祭事が行われ、北條高時像を本堂に迎え「大般若経転読会」が行われます。※現在はがけ崩れに伴い立ち入り禁止となっています。荒居閻魔堂跡 北鎌倉に移設(現在の円応寺)されましたが、かつては九品寺と同じく元弘合戦で亡くなった戦没者の慰霊のため寺院だったとされています。なお閻魔堂は、建長2年(1250年)に蘭渓道隆の弟子桑田道海の開山により甘縄神明社の御輿嶽の山麓に建立された寺院であり、戦死者供養のため新田義貞によって荒居に移転されました。しかし元禄16年(1703年)の元禄大地震で倒壊し、翌年に建長寺塔頭の大統庵跡地に移転し新居山円応寺と称しました。荒居閻魔堂旧跡を伝える石碑は現在は個人宅の敷地内にあるため、許可を得てお参りさせていただきました。佛法寺古戦場(霊山ガ崎)霊仙山の山頂付近には極楽寺の塔頭、佛法寺があったとされています。元弘3年(1333年)の新田義貞による鎌倉攻めでは霊仙山が攻防の要衝となったとされています。駒立山(片瀬)や大塚山(戦道峰)、陣鐘山(聖福寺)、十間坂・日坂(腰越)なども陣や戦場になったとされており、新田義貞の足跡をたどることができます。かつては霊山園という眺望のよい公園がありましたが大正12年(1923年)の関東大震災によるがけ崩れで崩れてしまったとされています。佛法寺は平成14年(2002年)に発掘調査が行われ、平成18年(2006年)に国の史跡に指定されました。十一人塚一度は極楽寺坂を突破した大舘宗氏でしたが、北條軍大仏貞直の反撃によって5月19日、稲瀬川付近で大舘宗氏以下11人が戦死しました。なぜ稲瀬川付近で戦死したのに稲村ケ崎で葬られているのかは謎ですが、十一面観音を安置して11人の霊を弔い、葬った場所が十一人塚とされています。大塚山古戦場遺跡(戦道峰)大舘宗氏の戦死を受け、鎌倉道(上ノ道)は弟の脇屋義助に任せ、急遽極楽寺へ向かった新田義貞。新田軍は大塚山の峯を越えたといわれており、戦道峰の名が残っています。大塚山古戦場(大塚山遺跡)からは当時の戦死者の骨が出土したと言われています。聖地巡礼クイズ1.5月19日に戦死した新田義貞の義兄弟は誰? ヒント:十一人塚・稲瀬川・極楽寺合戦・仏法寺合戦2.化粧坂まで攻め上った新田軍は押し戻され(洲崎合戦)、軍を別けて攻めることにした新田義貞。化粧坂攻めを誰に任せた? ヒント:新田義貞の弟3.北條氏の屋敷跡に戦死者を弔うために誰が宝戒寺を建立させたか? ヒント:討幕を命じた天皇4.護良親王の身代わりとなって自刃した人物は誰? ヒント:鎌倉宮の撫で身代わり5.討幕計画の罪で捕らえられ一度は許されたが、二度目に捕まったときは斬首されてしまった人物は誰か? ヒント:葛原岡神社6.新田義貞軍を洲崎合戦で北條軍の大将として善戦したが、敗走中に謀反を疑われるのを懸念し自害した人物は誰? ヒント:妹は足利高氏の妻・鶴岡八幡宮三の鳥居の丸太橋・墓は浄光明寺7.乱橋も戦地であったとされるが、現在の地名材木座のかつての地名は何か? ヒント:片瀬江島に対して〇〇江島と呼ばれた人工の港8.元弘の乱戦没者慰霊のために建立された荒居閻魔堂。荒居に移転する前に元々あった場所、そして現在ある場所はどこ? ヒント:笑い閻魔9.現在和田塚と呼ばれる塚は、和田合戦とは関係なく、元弘の乱の戦死者の供養塚や堂であったとされるが、何という塚と堂か?10.新田義貞は義兄弟の戦死を受けて5月21日に極楽寺坂方面へ向かう。山頂で陣を張って鐘を叩いて鼓舞したという山は何と呼ばれる山か?11.5月17日に村岡で激戦があり、多くの戦死者が土葬された地は何と呼ばれているか?